ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2016年1月21日公開の「「世界でいちばん幸福な」リベラル福祉国家、 デンマークの“右傾化”が突き付けていること」です(一部改変)。
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「世界幸福度指数」は国連が1人あたりGDPや男女の平等、福祉の充実度などさまざまな指標から各国の「幸福度」を推計したもので、2013年、2014年と連続して1位を獲得したのがデンマークだ(2015年はスイス、アイスランドに次ぐ3位)。「経済大国」である日本の幸福度が40位台と低迷していることから、「世界でいちばん幸福な国」の秘密を探る本が何冊も出された。
ランキングを見れば明らかなように、「幸福な国」とは“北のヨーロッパ”、すなわち北欧(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマーク)、ベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、スイス、アイスランドなどのことで、どこもリベラルな福祉国家として知られている。
ところがそのデンマークで、不穏なニュースが報じられている。難民申請者の所持金や財産のうち1万クローネ(約17万円)相当を超える分を政府が押収し、難民保護費に充当するというのだ(ただし結婚指輪や家族の肖像画など思い出にかかわる品、携帯電話などの生活必需品は除外されるという)。
デンマーク政府の説明では、これは難民を差別するものではなく、福祉手当を申請するデンマーク国民に適用されるのと同じ基準だという。難民を国民と平等に扱ったらこうなった、という理屈だ。
だがこの措置が、ヨーロッパに押し寄せる難民対策なのは明らかだ。財産を没収するような国を目指そうとする難民は多くないだろう。デンマークは、自国を難民にとってできるだけ魅力のない国にすることで、彼らの目的地を他の国(ドイツやスウェーデン)に振り向けようとしている。これではエゴイスティックな「近隣窮乏化政策」と非難されるのも当然だろう――もっともこの措置だと、所持金20万円以下の貧しい難民だけが集まってくる可能性もあるが。
「世界でいちばん幸福な国」が、なぜこんなことになってしまうのだろうか。
福祉国家とは差別国家の別の名前
じつはこれは、まったく新しい問題ではない。私は同じ話題を2004年9月刊の『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(その後『知的幸福の技術』として文庫化)で書いていて、10年以上たってもとくにつけ加えることもないので、それをそのまま転載しよう。
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米国では4000万人が医療保険に加入していない。高齢者と貧困層のための公的医療保険はあるが、アメリカ人の多くは企業が提供する医療保険プランを利用している。労働ビザを持たない不法移民はもちろん、自営業者や失業者も自分の身は自分で守るしかない。
米国の貧弱な社会福祉に比べて、ヨーロッパは公的年金や医療保険、失業保険が充実している。日本が目指すのは、そうした福祉国家だと言われる。
ドイツやフランスをはじめとして、ヨーロッパ諸国はどこも極右政党の台頭に悩まされている。それに比べて米国では、人種差別的団体は存在するものの、移民排斥を掲げる政党が国会で議席を獲得することはない。
一見、無関係に見えるこのふたつの話は、同じコインの両面である。米国に極右政党が存在しないのは、福祉が貧困だからだ。ヨーロッパで組織的・暴力的な移民排斥運動が広がるのは、社会福祉が充実しているからである。
国家は国民の幸福を増大させるためにさまざまな事業を行なっている。その中で、豊かな人から徴収した税金を貧しい人に再分配する機能を「福祉」という。
公的年金や医療・介護保険、失業保険は、国家が経営する巨大な保険事業であるが、それ自体は「福祉」ではない(1)。社会保障が福祉になるのは、一部の保険加入者が得をするように制度が歪められているからだ(2)。制度の歪みから恩恵を受ける人たちを「社会的弱者」と言う。
民主政は一人一票を原則とするので、社会的弱者の数が増えれば大きな票田が生まれる。彼らもまた経済合理的な個人だから、自分たちの既得権を守るために政治力を行使しようと考える。その既得権は国家が「貧しい者」に与える恩恵であり、より貧しい者が現れることで奪われてしまう。
アフリカ諸国やインドなど最貧国では、国民の大半が今も1日1ドル以下で生活している。東ヨーロッパの最貧国であるルーマニアでは、1日4ドル以下で暮らす国民が半数を超えるという。先進諸国の社会的弱者は、世界基準ではとてつもなく裕福な人たちだ。彼らが極右政党を組織して移民排斥を求めるのは、福祉のパイが限られていることを知っているからだ。
貧乏人の子供は貧乏のまま死ぬのが当然、と考える人はいないだろう。不幸な境遇に生まれた人にも、経済的成功の機会は平等に与えられるべきだ。では、貧しい国に生まれた人にも、豊かな暮らしを手に入れる機会が与えられるべきではないだろうか。
ここに、貧困を解決するふたつの選択肢がある。ひとつは、世界中の社会的弱者に平等に生活保護を支給すること。そのためには天文学的な予算が必要になるだろう。もうひとつは、誰もがより労働条件のよい場所で働く自由を認めること。こちらは、何の追加的支出も必要ない。
北朝鮮や旧イラクのような独裁国家には移動の自由はなく、国民は政治的に監禁されている。福祉国家は厳しい移民規制によって、貧しい国の人々を貧しいままに監禁している。誰もが独裁国家の不正義を糾弾して止まない。では、福祉国家は正義に適っているだろうか。
米国ではベビーブーマーが引退の時期を迎え、社会福祉の充実が叫ばれている。それに伴って、移民規制は年々、厳しさを増している。米国がごくふつうの福祉国家になる時、「移民の国」の歴史は終わりを告げるだろう(3)。
福祉国家とは、差別国家の別の名前である。私たちは、福祉のない豊かな社会を目指すべきだ。
(1)民間保険会社が福祉団体ではないのと同じだ。加入者が支払う保険料と受け取る保険金がバランスしていれば、単なる保険ビジネスである。(2)時には、すべての保険加入者が得をするように設計されていることもある。誰にも損をさせず、みんなが幸福になる保険会社は、構造的に破綻を運命づけられている。日本の公的年金制度がその典型だ。(3)現実には、アメリカは「福祉社会」に移行してきている。その実態は、ミルトン・フリードマンが『選択の自由』(日経ビジネス人文庫)で鋭く告発した。
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「福祉国家は差別国家の別の名前」というのは20年前は奇矯な主張だったが、いまになって振り返れば、現実はここで書いたとおりに進んできた。
EUが「人権大国」を目指す一方で加盟各国に極右勢力が台頭し、いまではデンマークだけでなく、ポーランド、スイス、ベルギー、フィンランド、ノルウェー、オーストリアなどでも移民排斥を掲げる政党が主要な政治勢力になっている。デンマーク国会が難民流入を抑止する法案を成立させれば、これらの国があとにつづくのは間違いないだろう。
オバマケア(医療保険制度改革)に象徴されるように、アメリカはオバマ政権の登場で明確に「リベラル=福祉」に舵を切った。それと同じくしてティーパーティの草の根運動が広がり、いまでは「イスラム教徒を入国禁止にせよ」と主張するドナルド・トランプが次期大統領選の共和党有力候補になっている。
だがここで、自分の先見の明を誇りたいわけではない。これは構造的な問題だから、国家が国民の福祉を充実させようとすればこうなるほかないのだ。こんな当たり前の指摘が珍しいのは、「福祉は無条件に素晴らしい」と信じるひとたちが不愉快な現実から目を背けているからにすぎない。
北欧の「リベラル原理主義」
もちろん私はここで、デンマークがナチスのような人種差別国家になっていく、などと主張したいわけではない。実際に訪れるとわかるが、デンマークは(物価が高いことを除けば)旅行者にとってとても快適な国だ。石造りの古い建物を残しながら、車と自転車、歩行者を機能的に分離した都市はきわめて魅力的で、美食の街としても頭角を現わし(「世界最高のレストラン」Nomaはコペンハーゲンにある)、外国人という理由で差別されるようなことは考えられない。
そんな“リベラル”なデンマークをよく表わしているのが、女性映画監督スサンネ・ビアのアカデミー外国語映画賞受賞作『未来を生きる君たちへ』だ(原題は「復讐」。英語タイトルは“In a Better World”=「よりよい世界のなかで」)。
主人公のアントンは、アフリカの難民キャンプで医師として(明示されていないが「国境なき医師団」だろう)働いている。だがアントンが、デンマークに妻と二人の男の子を残してボランティアに打ち込む理由は善意だけではない。彼の浮気が原因で、妻との関係がうまくいかなくなっているのだ。
アントンの息子のうち、兄のエリアスは前歯が目立つことから小学校で「ネズミ」と呼ばれ、いじめられている。そんなエリアスの親友になったのが、がんで母親を失い、父親との確執を抱える転校生のクリスチャンだった。
クリスチャンは、エリアスをいじめる男子生徒が自分にも手を出そうとしたとき、逆に徹底的に殴りつけ、ナイフを見せて「次は殺す」と脅した。この「復讐」によって、エリアスへのいじめもなくなった。
事件は、アントンが休暇でアフリカから帰国したときに起こった。二人の息子とクリスチャンを公園に連れて行ったとき、遊具をめぐって別の子どもと諍いになり、そこにアントンが割って入った。すると相手の子どもの父親ラース(明示されていないが明らかに中東からの移民)が現われ、「息子に手を出すな」といきなりアントンを平手打ちしたのだ。アントンはそれに対して報復も抗議もせず、黙って子どもたちを車に乗せる。
目の前で父親が殴られたことで、エリアスは大きなショックを受ける。彼が学校で学んだのは、「やり返さなければやられ続ける」というルールだからだ。そこで子どもたちはラースを探し出し、彼の仕事場(自動車整備工場)にアントンを連れて行く。父親に「復讐」の機会を与えるためだが、ここでアントンは思いもかけない行動に出る。
突然職場に現われて「なぜ暴力をふるったのか?」と詰問するアントンを、ラースはにやにや笑いながらふたたび平手打ちする。だがここでもアントンは報復せず、「お前の暴力は恐れない」といいながら理不尽に殴られつづけるのだ(トラブルになるのを恐れた整備工場の同僚が止めに入った)。
その後アントンは、エリアスとクリスチャンセンに次のようにいう。「あいつは暴力をふるうことしかできない愚か者だ。愚か者の暴力に、暴力で報復することになんの意味もない」――ここは「リベラル」の思想信条がよくわかる俊逸な場面だ。
最初の公園の場面だけなら、「バカを相手にしてもしょうがない」という軟弱な知識人の保身にも見える。だがそれなら、わざわざもういちど、それも子どもの前で殴らるようなことはしないだろう。
日本映画で同じ場面が描かれたとしたら、観客はそうとう奇異に感じるはずだ。主人公の行動にまったくリアリティがないからだが、これはアメリカ映画でも同じで、悪漢に殴られた主人公は殴り返さなければヒーロー(主人公)の資格がない。
なぜデンマークでは、右の頬を打たれたら左の頬を出すような(かなり奇妙な)場面が現実=リアルとして受け止められるだろうか。それは観客が、アントンを突き動かしている信条を共有しているからだ。
20世紀後半から、リベラルの新たな潮流が(北の)ヨーロッパを席巻した。それは、人種差別や女性への暴力、子どもの虐待(さらには「動物の権利」の侵害)に対する強い拒絶感情だ。1990年代の凄惨なユーゴスラヴィア紛争を間近で見たヨーロッパのひとびとは、あらゆる暴力を否定するという「原理主義」に急速に傾いた。
父親としてのアントンの奇矯な行動は、こうした背景があってはじめて理解できる。息子が理不尽な暴力を恐れるようになったと危惧したアントンは、「いかなる暴力も問題解決の手段としては使わない」という信念の優越を示すために、わざと子どもたちの前で殴られてみせたのだ。
移民を排斥するリベラルの論理
「いっさいの復讐を自分に禁じ、相手が殴ったら殴られつづける」という原理主義的なリベラルは、いうまでもなくきれいごとにすぎない。映画はそのことも承知していて、アフリカの難民キャンプにおけるアントンの“偽善”を容赦なく暴く。
キャンプの病院には、ときおり腹を切り裂かれた女性が運ばれてくる。「ビッグマン」という地域の悪党が、呪術のために妊婦の腹から生きたまま胎児を取り出すのだ。
ある日、このおぞましい悪党が足に大怪我を負ってやってくる。病院のスタッフや患者たちは、ビッグマンを治療せず死ぬに任せておくべきだと口々に懇願するが、アントンはそれを医師の倫理に反すると拒否する。
だが一命をとりとめたビッグマンはアントンを挑発し、暴言を浴びせるようになる。それに耐えかねたはアントンは、最後にはビッグマンを復讐を叫ぶ群衆のなかに放置してしまう。暴力に対して暴力で報復することを許したのだ。
映画はその後、アントンがデンマークに戻ったところでもうひとつの事件を用意する。「報復は復讐の連鎖を招くだけ」というアントンの理想論に、子どもたちは納得していなかった。そこで彼らは、アントンに代わって自分たちの手でラースに復讐すべく、納屋で見つけた火薬を使って自家製のパイプ爆弾をつくりはじめたのだ……。
『未来を生きる君たちへ』が描いたのは、原理主義的なリベラルは現実によって常に裏切られる運命にある、ということだ。それは「リベラル」が絵空事だからだが、その理想を愚直に実践することには絵空事を超えた価値がある。
できるわけがないことをやろうとする人間の前に、現実の壁が真っ先に立ちふさがるのは当たり前だ。だがそんな“愚か者”こそが、「人権」という人工的な(人間の本性に反する)思想を擁護し、暴力のない安全で幸福な社会(Better World)をつくることに貢献してきたのだ――この話の詳細はスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(青土社)を読んでほしい。
だがこの「人権尊重」は、移民を受け入れるときだけでなく、彼らを排斥するときにも方便として使うことができる。妻や娘を平等に扱い、子どもの人格を尊重し、宗教よりも世俗的な価値観を優先する啓蒙思想を拒絶する者は、「リベラルのユートピア」に居場所を与えられないのだ。
このようにして、リベラルな福祉社会はリベラルなまま、「価値観」の異なるムスリムの移民を排除できる。ヨーロッパの“極右”と呼ばれる政治集団は、東欧などからのキリスト教徒の移民への差別は許されないが、近代的でリベラルな世俗社会の価値観に同化できないムスリムの移民への「区別」は正当化できる、と主張しているのだ。
原理主義的なリベラルの信念は、ISによる度重なるテロでも試されることになった。テロに報復してシリアやイラクのISの領土を空爆しても、相手の憎悪を煽るだけで問題はなにひとつ解決しないのは明らかだ。だがテロの犯人に「赦し」を与えたところで、彼らはそんなものを一顧だにせず新たなテロを計画するだろう。
EUというゆるやかな共同体のなかに複数の国家が共存するヨーロッパは、いわば巨大な社会実験をやっているようなものだ。いまやもっとも過激(原理主義的)なリベラリズムは北のヨーロッパから生まれ、それがニューヨークやカリフォルニアのような「リベラルなアメリカ」に伝わり、カナダやオーストラリアなどの英語圏の移民国家(アングロスフィア)に広まって「グローバルスタンダード」をつくっていく。
こうしたリベラルの潮流が(良くも悪くも)世界の基準を決めているのだとしたら、その源流である「世界でいちばん幸福な国」の“右傾化”は、私たちの未来を知るうえで重要な出来事になるだろう。
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