マルチステージのリカレント教育という幻想

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2022年1月13日公開の「「人生100年時代」という人類史上未曾有の「超長寿社会」に どう備えるべきか?」です(一部改変)。

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アンドリュー・スコット、リンダ・グラットンの『LIFE SHIFT2(ライフシフト2) 100年時代の行動戦略』( 池村千秋訳、東洋経済新報社)は「人生100年時代」が現実のものになることを説いて日本でもベストセラーになった『LIFE SHIFT(ライフシフト)』の続編で、著者の一人グラットンは安倍元首相から「人生100年時代構想会議」のメンバーに任命された。

著者たちの主張は前作から一貫しており、それをひと言でまとめるなら、「人類史上未曾有の「超長寿社会」とテクノロジーの指数関数的進歩がもたらす激変に備えなければならない」になるだろう。

本作では、「技術的発明」は新たな可能性を生み出すが、それがひとびとに恩恵をもたらすには「社会的発明」が必要になることが論じられる。それにもかかわらず、いまは「技術的発明」だけが先行し、「社会的発明」が大きく出遅れていると著者たちは危惧している。

とはいえ私は、本書の提案に完全に納得しているわけではない。そのことも含めて感想を書いておきたい。

「生涯現役社会」と「生涯共働き」が現実に

日本は世界に先駆けて超高齢社会に突入したが、東アジアや欧米諸国もそれに続いている。日本では、2050年には80歳以上が人口に占める割合が18%(およそ5人に1人)になると予想されている。

日本だけでなく、いまや先進国で生まれた子どもは、100歳以上まで生きる確率が50%を超えるという。幸いなことに、平均寿命が上昇しても、健康に生きられる期間が人生全体に占める割合は少なくとも減っておらず、むしろ多くの国でその割合が大きくなっている。

イギリスでは2000年から2014年までの間に平均寿命が3.5年延び、このうちの2.8年を(自己申告によれば)健康に生きている。慢性疾患のないイギリスの65~74歳は現在69%だが2035年には80%以上になり、75歳から84歳でも半分以上(58%)が慢性疾患なしで生きられるとの予測がある。「虚弱な状態で生きる年数が増えているわけではなく、中年期の後半と老年期の前半が長くなった」のだ。

高齢者の割合が増えているのは、寿命が延びているのと同時に、少子化が進んでいるからだ。日本の人口は2004年に1億2800万人だったが、それが2050年に1億900万人、2100年には8450万人と減っていく。ほかの条件がすべて同じなら、国の人口が1%減るごとにGDPの成長率も1%下落する。日本の経済は、この効果だけで、向こう半世紀にわたりGDP成長率が毎年0.6%のペースで落ち込んでいくことになる。

人口動態はきわめて安定しているので、これらはただの予想ではなく、「確実にやってくる未来」だ。そのような社会で間違いなく起きることが2つある。

1つは世代間対立の激化で、「老後資金の確保、医療の提供、世代の公平 社会的発明が切実に必要とされている」と著者たちはいう。

本書には書かれていないが、日本では2040年に国民の3人に1人が年金受給年齢の65歳を超え、内閣府の試算では年金や医療・介護保険などの社会保障費の総計が200兆円に達する。20代から65歳までの現役世代を5000万人とするならば、単純計算で1人年400万円の負担だ。

こんな制度が持続可能だとは誰も思わないだろう。その結果、コロナ禍で政府が現金を給付しても、貧困層以外のほとんどが貯蓄に回し、国の借金と個人(家計)の金融資産が増えるだけになった。

もう1つは、「いまの20代は80代まで働かなくてはならない可能性がある」こと。

現役時代に所得の10%を貯蓄に回すと仮定すると、引退後に最終所得の半分程度の生活資金を確保したいなら、70代後半もしくは80代前半まで働く必要がある。寿命が10年延びるごとに、引退後の生活費を確保するために7年長く働かなくてはならなくなるとの試算もある。

数年前に「老後2000万円問題」が炎上したが、老後を安心して暮らすだけの金融資産がないのだとしたら、誰か(国)が足りない分を恵んでくれるわけもないのだから、自ら働いて貯蓄する以外に方途はない。

私はずっと「日本は生涯現役社会になる」といいつづけてきたが、以前は中高年のサラリーマンから、「懲役10年でようやく出所できると思っていたのに、無期懲役だというのか」とのお叱りをずいぶん受けた。あらゆる国際比較で、日本のサラリーマンは世界でもっとも仕事が嫌いで会社を憎んでいることが明らかになっており、だとしたらこうした反応も仕方がないとあきらめていたのだが、安倍政権の「人生100年時代構想会議」以降、生涯現役への批判はほぼなくなった。

「超高齢社会での最強の人生設計は“生涯共働き”以外にない」の主張も、最近は「空理空論」と怒られることはなくなった。「専業主婦は2億円損をする」と、当たり前のことをいっただけで炎上したことを思えば隔世の感がある。

日本人に現実を直視させたという意味で、著者たちの貢献は間違いなく大きい。

「マルチステージ」よりも専門性のある「シングルステージ」へ

人類学では、過去の確実性が失われたときに足場を失ったように感じることを「リミナリティ」という。わたしたちはいま、人生の「錨」が失われたたことで、いわば漂流状態に置かれている。

先進国の標準的な人生は、フルタイムで教育を受け、フルタイムで仕事に携わり、フルタイムで引退生活を送るという「3ステージ」だった。だが定年後の年数が大幅に延びたことで、この人生設計は破綻してしまった。それに代わる新たなビジョンがないことがひとびとを不安にしている。

こうして著者たちは、「3ステージからマルチステージへ」の転換を説く。人生100年時代には、わたしたちは何度も学び直し、新たな仕事に就くようになるのだという。

このことを本書では、何人かの架空の登場人物の人生の選択として描いている。

インはオーストラリアのシドニーで暮らす55歳の会計士で、パートナーとは離婚しひとり暮らしをしている。携わっていた業務が自動化されたとの理由で最近、解雇を言い渡され、次の職を決めなくてはならない。会計士の仕事を続けるにはもっと高度なスキルを身につけなくてはならず、そうでなければ、まったく異なる仕事に就くスキルを学ばなければならないと考えている。

トムはアメリカのテキサス州ダラスに住む40歳のトラック運転手で、妻と、すでに成人した息子と一緒に暮らしている。現在の仕事や給与に不満はないが、今後、自動運転のテクノロジーが進歩すると大きな影響を受けるのではないかと不安に感じている。選択肢のひとつは、物流の現場を熟知していることを活かして、自動運転車を指揮する管理業務に就くことだ。これなら、要求されるスキルは高くなるものの、給与もかなり上がるはずだ。

これが、現代社会における先進国の労働者の典型的なケースだろう。それ以外の登場人物も含め、いずれも「3ステージ」の人生設計では自分の将来を描くことができなくなっている。

だがこれを「マルチステージ」といっていいのだろうか。私は、すくなくとも知的職業においては、人的資本をひとつの専門性に投入することが重要だと考えている。投資でいえば「タマゴをひとつのカゴに盛る」戦略で、いわば「シングルステージ」の人生設計だ。

55歳の会計士インが、リカレント教育(学び直し)によって、これまでとまったく別のことを始めたとしよう。それがライターや料理だとすると、いずれの分野にも、20代(あるいは10代)からそこで人生のすべてを賭けてきたライバル(プロフェッショナル)がいる。それを考えれば、「マルチステージ」の成果は、せいぜいWEB記事をギグワークで執筆するとか、パートタイムでレストランで働くくらいで、給与も生活水準も大幅に下がるのではないか。

だとすればインは、これまでの会計士の経験を活かして、より高度なスキルを身につけることでキャリアを更新するしかない。こうした事情はトムも同じで、物流業以外の仕事を一から学び直そうなどとは考えず、自分がよく知っている分野でなにができるかを考えている。

逆にいえば、55歳の会計士がライターを目指したり、40代のトラック運転手が料理教室に通うような「マルチステージ」になるのは、「シングルステージ」の戦略が破綻したからだ。

このことは、著者たちを見ても明らかだろう。スコットもグラットンも生涯現役を当然のことと考えているだろうが、これからの彼/彼女の「ステージ」は、ベストセラーの延長上に新しい本を書いたり、人生100年時代の生き方について講演したり、各国政府やさまざまな企業・団体にアドバイスすることで、まったく異なる分野を勉強し直し、その専門家になろうなどとは思わないだろう。

専門性がますます重視されるようになった現代(高度化した知識社会)では、(ほとんど場合)30代で自分のキャリアを決めたら「シングルステージ」でやっていくしかない。あとは、それを生涯現役で続けられるか、行き詰るかのちがいがあるだけだ。

習得すべきスキルがはっきりしていれば、リカレント教育より独学で十分

マルチステージのリカレント教育がうまくいかないことは、欧米ではすでに明らかになっている。著者たちも、「多くの国では成人教育産業が苦戦を強いられている」と、この現実を認めている。

イギリスでは、大学の学部教育プログラム(学位を授与しないパートタイムの教育)の数は大幅に増加したが、大学で学ぶ大人の数は2004年から2016年の間にほぼ半減した。オンライン上の学位取得プログラムは、当初こそ急速に拡大したが、その後は足踏み状態が続いているという。

その結果、「大半の大学は、オンライン教育の拡大によりコストを削減できるどころか、従来型の教育とデジタル教育の両方に対応するために、逆にコストが大幅に増えてしまったように見える」という状況に陥っている。少子化で経営が苦しい日本の大学も成人教育にちからを入れようとしているが、同じ結果になる可能性は高い。

問題は、コスト(学び直しをする費用と時間)に対して、得られるリターンがはっきりしないことだ。

そもそも大学自体が、学生を教育する効果よりも、就職市場での「シグナリング効果」の方がはるかに大きい。企業は、数回の面接で応募者の能力や資質を正確に見極めることができず、それなりの大学で学位を取得した(真面目に勉強して卒業した)というシグナルを基準に採用するしかない。

参考:大学教育に意味はあるのか?

リカレント教育も同じで、そこで取得した単位が、雇用主に対して(昇進したり、転職に有利になるなど)ポジティブなシグナルでなければ、コストに見合う価値はない。だが現実には、日本よりずっと進んでいるはずの欧米の教育産業でも、このポジティブな循環をつくるのに失敗しているということなのだろう。

もちろん、テクノロジーが世界を大きく変えていくなかで、仕事のために新たなスキルを身につけなくてはならない場面はたくさんあるだろう。だがその場合には、わざわざお金を払って大学に入り直さなくても、オンラインでタダ(あるいは低額)で学べる機会がいくらでも提供されている。――オンライン講義で習得したことをオープンバッジで認証する「マイクロクレデンシャル」も広がっている。

本書では、27歳でグッチの広告のイラストを描いたスペイン人アーティスト兼イラストレーター、イグナシ・モンレアルの例が紹介されている。モンレアルは2つの学位を持っているが、コンピュータとタブレット型端末でイラストを描くスキルは大学で学んだわけではなかった。

「ユーチューブで勉強した。学習動画がたくさんアップされているから。それに、グラフィックデザインもユーチューブで学んだ」とモンレアルは語っている。「写真家になりたいかはともかく、写真の撮り方は勉強したいと思っていた。そこで、いろいろ動画を見て、写真を撮れるようになった……強い忍耐心は必要。でも、辛抱強く取り組みさえすれば、無料で学習できる。(コンテンツが)体系立てて整理されているとは言えないけれど、本気で学ぼうと思えば学ぶことができる」

習得すべきスキルがはっきりしていれば、独学で十分だ。何を学ばなくてはならないかがよくわかっていない場合、漫然とリカレント教育を受けても時間とお金の無駄でしかない。このハードルを越えないかぎり、成人後教育をビジネスにする試みが成功するのは難しいだろう。

「入社年齢を多様化する」ことと「引退と生産性に関する考え方を変える」

人生100年の時代には、労働者の働き方だけでなく、企業の雇用形態も大きく変わらざるを得ない。そのなかでも重要なのは、「入社年齢を多様化する」ことと「引退と生産性に関する考え方を変える」ことだと著者たちはいう。必要な人材を年齢にかかわらず中途で採用し、定年を決めずに、双方にメリットがあるかぎり何歳になっても働けるようにするのだ。

こうした理想はしばしば日本でも口にされるが、それが一向に進まないのは、「新卒一括採用、年功序列、(定年までの)終身雇用」という日本的雇用制度と真っ向から対立するからだ。

小泉政権以降、この国では「日本的雇用が日本人(男だけ)を幸福にしてきた」として、右も左も、ありとあらゆる働き方改革の試みに「ネオリベ」のレッテルを貼って罵詈雑言を浴びせ、「雇用破壊を許すな」と大合唱してきた。

だがいまや、「日本的雇用こそが諸悪の根源」であることが、誰に目にも明らかになってきた。これは何度も書いたので繰り返さないが、「素晴らしき日本的雇用」は、「正規/非正規」「親会社/子会社」「本社採用/現地採用」などの重層的な差別のうえに成り立っている。労働組合をはじめ、この国の「リベラル」を自称するひとたちは、自分たちの既得権を守るためにこの「不都合な事実」をずっと隠蔽してきたのだ。

とはいえ、「日本的雇用(メンバーシップ型)」を破壊して世界標準のジョブ型の働き方に変えたとしても、なにもかもうまくいくわけでなない(ジョブ型の雇用制度の方がはるかにリベラルなのは間違いないが)。

アメリカでは法律によって年齢差別が禁止され、定年もないが、45歳を過ぎると有給の職を退くひとが増えはじめる。多くは自発的に引退しているわけではなく、仕事を失ったあとに求職の意欲をなくし、「失業者」にカウントされなくなったのだ。その結果、雇用されている男性の割合(労働力率)は大恐慌時代を下まわっているという。

法的に年齢差別が禁止されていても、誰を採用するかは雇用主の自由だ。アメリカでも中高年の再就職は難しく、62歳を超えている大卒者が失業して2年以内に再就職できる割合は50%だ(25~39歳の大卒者は80%超)。2017年(コロナ前)のデータでは、55歳を超えて職探しをしているアメリカ人の3分の1以上は失業状態が6カ月以上続いていた。

働くことをあきらめたのは高齢者だけではない。アメリカでは、25~64歳の男性の8人に1人が有給の職に就いていない。他の先進国も似たようなもので、オーストラリア、フランス、ドイツでは、やはり現役世代の男性の10人に1人が働いていない(日本はこの年齢の男性の労働力率は95%前後)。

こうした状況を見ると、著者たちのいう「社会的発明」が見つかる前に、すでに多くの労働者が高度化する知識社会から脱落しはじめているようだ。これが昨今の欧米社会の混乱・動揺の背景にあることも間違いない。

だったら、それに対して政府はなにをすべきなのか。著者たちが提案するのは、北欧型の「フレキシキュリティ(フレキシブル=柔軟+セキュリティ=安全)」で、「採用も解雇も同じくらい簡単におこなえるが、失業した人には手厚い失業手当に加えて、教育の機会が用意されて再就職が後押しできるようになっている」社会だ。これが「ネオリベ型福祉国家」で、国家による一定の支援の下に、一人ひとりが「自己責任」でキャリアをつくることが求められる(国家が国民の生活の面倒を見てくれるわけではない)。

もちろん、これだけでは社会に適応できないひとたちが膨大に生まれることになる。そこで著者たちは、すべての国民に毎月一律の現金を給付するUBI(ユニヴァーサル・ベーシックインカム)を提案する。

UBIについてはすでに言い尽くされており、私はそれが実現可能とは思わないが、『LIFE SHIFT』の著者たちをもってしても、いまのところこれくらいしか提案できることがないということなのだろう。

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