政治資金パーティをめぐる裏金疑惑が拡大し、岸田政権はますます窮地に追い込まれています。実態はこれから検察によって解明されていくでしょうが、ここではこの事件を「説明責任」から読み解いてみましょう。なぜならこれが、今年の(というよりも、リベラル化する社会の)キーワードになるからです。
副大臣を辞職したある安倍派議員は、それがよほど悔しかったのか、記者団に「派閥から収支報告書に記載しなくてよいと指示があり、適法と推測せざるを得なかった」と語っています。
この正直な告白からわかるのは、ほとんどの政治家に違法行為の認識がなかったらしいことです。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」で、長年やってきているのだから、自分だけが批判されるいわれはないという理屈です。派閥の事務方も、違法行為を隠蔽するというより、たんに前例を踏襲していただけなのでしょう(その後、ある大臣経験者はこれを「文化のようなもの」と説明しました)。
ところが、いったんこのグレイな慣習が表沙汰になると、政治資金規正法に違反しているではないかとの批判に答えることができなくなってしまいます。その結果、派閥は議員に「しゃべるな」と箝口令を敷き、それによってますます心証が悪くなり、ついには関係する議員全員を政府や党の要職から更迭せざるを得なくなったのです。
「アカウント」は日本では金融機関などの口座や得意先・顧客の意味で使われますが、英語では“account”の第一義は「報告・説明」で、動詞では「説明する・責任をとる」になります。ここから「アカウンタビリティ(accountability)」は「説明責任」と訳されるようになりました。
リベラルな社会では、公人はもちろん私人であっても「アカウンタブル(accountable)」であることが求められるようになりました。「なぜそのようなことをしたのか?」と問われたら、その合理的な理由を説明できなければならないのです。
これを逆にいうと、説明できない行為は、ただそれだけで道徳や倫理に反すると見なされます。それが有名人であれば、たちまちSNSで炎上し、「キャンセル」の標的にされるでしょう。
ジャニー喜多川の性癖はみんな知っていましたが、「しょせん芸能界の話」と見て見ぬふりをしていました。宝塚の問題も同じで、学校でのいじめが大きな社会問題になっていても、「女の園がそうなるのは当たり前」で済まされてきました。ところがどちらも、いったん表沙汰になると、不適切な状況を放置してきた理由を説明できず、強い批判を浴びることになったのです。
日本社会は「近代のふりをした身分制社会」なので、政治や芸能の世界以外にも、アカウンタブルでない慣習がたくさん残っているでしょう。しかしそれらは、これからひとつずつ「説明責任」を問われることになるはずです。
グローバル世界と同じく日本も「リベラル化」の巨大な潮流のなかにあるので、ますます強まる「正論」の圧力から逃れる術はありません。だとしたら残された道は、「透明性」と「アカウンタビリティ」によって身を守ることしかなく、こうして日本も北欧など「リベラル」な社会と同じになっていくのでしょう。
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