ささいな日常の諍(いさか)いから国家間の戦争まで、なんらかのトラブルが起きると、わたしたちは無意識のうちに善と悪を決めようとします。その理由は、脳がきわめて大きなエネルギーを消費する臓器だということから説明できるでしょう。人類の歴史の大半を占める狩猟採集時代には、食料はきわめて貴重だったので、脳はできるだけ資源を節約するように進化したはずです。
脳を活動させると大きなエネルギーコストがかかりますが、瞬時にものごとを判断すれば最小限のコストで済みます。こうしてわたしたちは、面倒な思考を「不快」と感じ、直観的な思考に「快感」を覚えるようになりました。
人間関係の対立は、わたしたちが生きていくうえで、生存や生殖に直結するもっとも重要な出来事です。双方の言い分を聞き、何日もかけて話し合うのではなく、その場で対処しなければならないことも多かったでしょう。このようにして、あらゆる対立を善悪二元論に還元することが“デフォルト”になったのです。
2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、それ以前の「歴史問題」があったにせよ、侵略したロシアが「悪(加害者)」で、ウクライナが「善(犠牲者)」であることは明白でした。欧米をはじめとする国際社会が即座にウクライナへの支援を決めたのは、善悪の構図がわかりやすく、国民を説得するのが容易だったらでしょう。
ところがイスラエルとハマスの紛争では、一方の「悪」を批判すると、他方の「悪」を擁護することになってしまいます。
すべての国家には、市民の安全を守る義務と権利があります。ハマスのテロによって約1400人が殺され、240人ちかくが拉致された以上、イスラエルがハマスを掃討して人質を奪還しようとするのは当然です。かといって、「テロとの戦い」を強調すると、ガザ市民の犠牲を無視するイスラエルのプロパガンダと同じになってしまいます。
一方、人質をガザに連れ去った時点で、その後のイスラエルの報復攻撃もハマスの計画の一部だったことは明らかです。イスラエルの“残虐さ”を世界に配信するのが目的なら、病院を武装拠点にして、より多くの市民の犠牲を「演出」しようとしても不思議ではありません。
このようにして「善」と「悪」を単純に決められなくなり、状況は「DD(どっちもどっち)」的になっていきます。これはきわめて大きな認知的負荷がかかり、生理的に不快です。
DD派は「冷笑系」とも呼ばれ、ネットではつねに「旗幟を鮮明にしろ」と批判されますが、日々報じられるガザの悲惨の現実は、世界が単純な善悪二元論でできているわけではないことを教えてくれます。対立する当事者はいずれも、自分が「善」だと主張するのですから、第三者に善悪を簡単に判断できるようなことが例外なのです。
これを逆にいうと、複雑なものごとを複雑なまま理解するという認知的な負荷に耐えられないひとが(思ったよりも)たくさんいて、それが日本や世界のさまざまなところで起きているやっかいな対立・抗争の背景にあるのでしょう。もちろんこんなことはみんな知っていて、大きな声ではいわないだけかもしれませんが。
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