民主的な社会の大原則は、すべての市民を無差別(平等)に扱うことだ。人種、民族、性別、出自、性的指向などの属性で個人の扱いを変えることは差別として容認されないし、ものすごく嫌われる。
ところが日本では、こうした市民社会の原則に反することがたくさんある。正規/非正規の「身分差別」が典型だが、国民年金の第3号被保険者制度もそのひとつだ。
日本は国民皆年金で、すべての成人が年金保険料を支払い、原則65歳から納付総額に応じた年金を受給することになっている。だが奇妙なことに、保険料を支払うことなく年金を受け取れるひとたちがいる。これが第3号被保険者で、その多くはサラリーマンや公務員の夫をもつ専業主婦だ。
この制度がものすごく不公平なのは、次のようなケースを考えてみればいいだろう。
ある女性はシングルマザーとして幼い子どもを育て、年収300万円程度の苦しい生活をしながら満額の年金保険料を支払っている。
一方、別の女性は夫の年収が2000万円以上ある裕福な専業主婦で、生活にはなんの不安もない。それにもかかわらず年金保険料を免除され、将来の年金受給が約束されている。
このときシングルマザーの女性から「こんな制度はおかしい」と訴えられたら、どう答えるのか。それができないのなら、制度そのものが「差別」なのだ。
岸田政権は人手不足の対策として、パートの主婦らが社会保険料の負担を避けようと就業調整する「年収の壁」の解消を目指している。だがその方法は、労働者一人あたり最大50万円を企業に支給する助成金制度を創設することだという。
この話がおかしいのは、差別を解消するのではなく、短時間労働の主婦パートに税を投入することで新たな「差別」をつくり出していることだ。もっとも効果的なのは第3号被保険者制度を廃止することで、これで年収の壁はなくなってすべての市民が平等になる。そのうえで、所得の低いひとや、さまざまな理由で働けないひとを支援すればいいのだ。
北欧社会もかつては社会保障が世帯単位だったが、半世紀ほど前に個人単位につくり替えた。近代社会は、自立した市民によって構成されるべきだからだ。ところが日本では1986年に、「夫が働き妻が家庭を支える」という家父長制的な家族制度を守るために、第3号被保険者制度を創設している。
奇妙なのは、家父長制を批判してきたフェミニストが、この差別的な制度に反対しないばかりか、逆に支持したことだ。政治家も「選挙に有利になる」と皮算用したのだろうが、堂々と「こうした制度は民主社会の原則に反する」と反対すべきだった。
この例にかぎらず、日本社会では「正しいこと」よりも「誰からも嫌われないこと」が好まれる。こうして安易な解決策に飛びつくのだが、その結果、将来より大きなつけが回ってくることを、いつになったら学習するのだろうか。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.112『日経ヴェリタス』2023年10月28日号掲載
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