第108回 役所に居座るお「殿」さま(橘玲の世界は損得勘定)

インボイス制度の導入で「適格請求書発行事業者の登録」を税務署に申請しようと書類をダウンロードしたら、提出先が「〇〇税務署長殿」になっていた。いまどきなぜ、納税者が税務署長を「殿」と呼ばないといけないのか――とSNSでつぶやいたら、ちょっとした議論になった。「殿」は目下の者に使うから問題ない、というのだ。

言語学者は、日本語には強い「敬意逓減の法則」が働いているという。「貴様」がかつては敬称だったように、どんな敬語も、使っているうちにどんどんすり減ってしまうのだ。

「殿」にもこの法則がはたらいて、社内文書に「係長殿」と記載するように、いまでは目下の役職への書面上の敬称として使われている。だとしたら、「目上」の納税者が「目下」の税務署長に送る書類も「殿」でかまわない、という話になる。

だが、この理屈に違和感を覚えるひとも多いだろう。一般的な日本語では、「殿」は格式ばった(時代劇のような)男性への敬称として使われるからだ。

歴史的には、「殿」は明治時代に、役職の上下にかかわらず、官庁内の文書で用いる敬称として定着したようだ。それが広まって、民間業者などから官吏に宛てた文書にも「殿」を使うようになった。

当時の価値観からすれば、「殿」の敬称が官尊民卑、男尊女卑を前提としているのは明らかだ。官吏のなかに女がいないのが当たり前だからこそ、互いに「殿」と呼び合ったのだろう。

GHQ統治下の1952年に、将来的には「殿」を廃し、公用文を「様」で統一するのが望ましいと提言されている。「殿」に差別的な含意があることは、70年も前に意識されていたのだ。

ビジネスマナーでは、「殿」は社内の相手に限定して、個人名ではなく役職にしか使ってはならないとされている。要するに、「内輪」の敬称だ。

いうまでもなく、納税者は税務署の「内輪」ではない。それとも憲法で納税義務が定められている以上、税務当局の支配下にあると思っているのだろうか。

官公庁の感謝状などには、(ビジネスマナーに反して)個人名+殿が使われている。これは官(お上)から民(市民)に下賜される文書で、なおかつ男だけしか相手にしていない時代の名残だろう。

そもそも日本語は、「目上」「目下」が決まらないと、正しい言葉遣いができない特殊な言語だ。SNSには「敬語警察」みたいなひとがたくさんいて、尊敬語や謙譲語の間違いを指摘する。だがこれは、「正しい日本語」を隠れ蓑に、身分制社会を正当化しているのではないのか。

日本語には「様」という、誰にでも使えるジェンダーレスな敬称がある。役職にさらに敬称をつけるのは過剰敬語だ。

民主的な社会では、すべてのひとが平等なのだから、できるだけ「目上」「目下」を意識させないような言葉遣いに代えていくべきだ。一部の自治体では「殿」を使わないようにしたというが、税務署長を「殿」と呼ばせる悪弊もさっさとやめた方がいいだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.108『日経ヴェリタス』2023年3月18日号掲載
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