「病は気から」を科学する

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年3月19日公開の「「病は気から」のプラセボは実際に「薬効」があった。 条件づけにより薬を投与せず完全にがんが消えたマウスも」です(一部改変)。

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代替医療は「エビデンスのない治療法」のことで、ホメオパシーやハーブ療法だけでなく鍼や漢方も含まれる。近代医学においてエビデンスというのは、二重盲検によるランダム化比較試験で統計的に有意な効果を得ることだ。それ以外の治療法は、効果がないのにあるように見せかけている「エセ医学」ということになる。

ところで、薬の効果を調べるのになぜこんな面倒なことをしなければならないのだろうか。それはよく知られているように、プラセボ効果があるからだ。「病は気から」という言葉があるように、なんの薬効もない偽薬でも症状が緩和したり病気が治ったりすることがあるから、「科学的に正しい治療」はそれと厳密に区別されなければならないのだ。

この論理はまったく正しいのだが、「たとえ気のせいであって、病気が治るのならそれでじゅうぶんではないか」という疑問をもたないだろうか。

この問いに挑んだのがジョー・マーチャントの『「病は気から」を科学する』( 服部由美訳、講談社)だ。マーチャントは大学で生物学を学び、医療微生物学で博士号を取得したイギリスの科学ジャーナリストで、本書の原題は“CURE: A Journey into the Science of Mind Over Body(キュア “身体の向こうのこころ”の科学への旅)”。

マーチャントによれば、欧米では成人の38%がなんらかの補完代替療法を利用していて、合計すると、毎年、代替医療の開業医に3億5400万回の診療を受け、340億ドルを支払っている。一般開業医での診察はおよそ5億6000万回だから、代替医療市場はその6割にも達する。だとしたらこれは、たんなるインチキではなく、ひとびとがなんからの一貫した効果を実感しているからではないのだろうか。

プラセボには実際に「薬効」がある

パーキンソン病はドーパミンを生成する脳細胞が徐々に死んでいく変性疾患で、脳内のドーパミン濃度が下がるにつれ、筋肉のこわばり、緩慢な動作、震えなどの症状が徐々に進行していく。そのため、投薬によってドーパミンを補充するのが標準的な治療法になっている。

このパーキンソン病はプラセボの効果がきわめて高く、なんの薬効もない偽薬で重篤な症状が和らぐ可能性があることが繰り返し報告されてきた。そこでブリティッシュコロンビア大学(カナダ)の神経科医ジョン・ストースルは、患者の脳内でいったい何が起きているのか脳スキャン画像で調べてみた。

ストースルが驚いたことに、プラセボを飲んだあとの被験者の脳は、本物の薬を飲んだときと同じようにドーパミンであふれていた。たんに「薬を飲んだ」と思い込んだだけで、ドーパミン濃度は3倍まで上がり、健康なひとのアンフェタミン服用時と同等になっていたのだ。このことは、プラセボには実際に「薬効」があることを示している。

モリネッティ病院(イタリア)の神経科学者ファブリッツィオ・ベネディッティが率いるチームは、パーキンソン病の患者の脳に「脳深部刺激療法」の電極を埋め込む際にプラセボ効果の測定を試みた。患者に「アポモルヒネという強力な抗パーキンソン病薬を投与します」と伝えて、実際には生理用食塩水を注射したところ、脳活動のグラフでスパイクが密集している部分(パーキンソン病の特徴であるニューロンの興奮を制御できない状態)が、プラセボ注射の直後にほぼ完全な沈黙になった。「圧倒するような空白部分を遮るものは、1個のスパイクだけだ」という驚くべき効果だった。

ベネディッティは、大学生にアルプスの高地で半時間のエクササイズをさせて高山病にする実験も行なっている。高地では血中酸素濃度が薄くなるので、脳はプロスタグランジンと呼ばれる神経伝達物質を産生し、身体に多くの酸素を送り込もうとする。これが血管拡張などの変化を引き起こし、高山病に特有の頭痛やめまい、吐き気を引き起こす。

高山病は酸素の欠乏によって起こるのだから、それを治療するには酸素を吸えばいい。ところがここでベネディッティは奇妙な現象を発見した。被験者に酸素の含まれていない空気を吸わせても高山病の症状が寛解したのだ。

血中酸素濃度を調べてみると、当然のことながら、偽の酸素では値は変化していなかった。だがそれにもかかわらず脳内のプロスタグランジン濃度が低下し、血管拡張状態が緩和されていた。「被験者がプラセボ効果を体験しているとき、脳は本物の酸素を吸っているかのような反応を見せ、症状が和らぎ、エクササイズの成績がよくなった」のだ。

このような実験から、「プラセボ効果自体にはなんら神秘的なところはなく、生理学的には脳が本当の薬と同じような反応を見せ、その効果は測定可能である」ことが明らかになった。ベネディッティは、音楽からセックスまで、生活のあらゆる側面にプラセボ効果が存在するとして、「人間は象徴的な動物なんです。どんな場面でも、重要なのは心理的な要素です」と述べている。

いまでは、プラセボ効果の限界について2つの重要な点が明らかになっている。

(1)治療を信じるこころが起こす効果は、身体がもっている天然ツールにかぎられる
偽の酸素を吸うことにより脳に空気中の酸素濃度が高いかのような反応が起きても、血中酸素の実際の濃度を上げることはできない。切断手術を受けたひとにプラセボで脚がはえてこないのと同じく、Ⅰ型糖尿病の患者にプラセボを与えてもインスリンは産生されない。

(2)期待がもたらす効果は、特定の症状にかぎられる
プラセボの効果は、痛みや痒み、発疹や下痢に加え、認知機能、睡眠、カフェインやアルコールなど中毒性のあるものの影響など、「自分で気づいている症状」に限定される。そのなかでもうつ病や不安、依存症などの精神障害に対してはプラセボ効果がとくにに強く出るらしい。

近代医学こそがもっとも強力な「呪術医療」

現在の抗うつ剤の主流はSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)だが、ハーバード大学の心理学者で、プラセボ研究プログラムの副責任者であるアービング・キルシュがFDA(米国食品医薬品局)から臨床試験データを入手して検証したところ、プロザックなどの抗うつ剤にはプラセボを超える効果がほとんどなかった。同じく、強力な鎮痛剤だと考えられているいくつかの薬に、痛みに対する直接的な効果がまったくないこともわかってきた。これまで「薬効」とされてきたものの多くが、じつはプラセボだった可能性がある。

オピオイド系の鎮痛剤は、脳内のエンドルフィン受容体と結合することで作用する。パーキンソン病におけるドーパミンと同じで、なんらかの方法で脳内のエンドルフィン濃度が上がれば鎮痛効果が生じるということだ。

そしてどうやら、このメカニズムが発動する条件は、「特定の薬」を投与されることではなく、「痛みが和らぐ」という期待が引き起こされることだけらしい。「薬の投与に気づいていること」と、「それに対して前向きな期待を抱いていること」が、脳内の天然エンドルフィンの放出につながるのだ。製薬会社にとって不都合なことに、これまで強力な鎮痛剤だとされていた薬が作用するのは、このプロセスだけだったようだ。

ベネディッティは、本物の薬を使ってプラセボ効果を検証した。手術後の患者に同じ鎮痛剤を点滴したが、一方は効果について説明し、対照群は説明なしでコンピュータによってひそかに点滴したのだ。鎮痛剤の薬効はどちらも同じだが、実際には、医師から説明を受けて薬を投与された患者は、知らずに薬を投与された対照群よりも最高で50%まで痛みが和らいだ。

ここから、現代社会においてもっとも強力なプラセボ効果をもつのは代替医療ではなく、「近代医学」であることがわかる。さらにメディアの報道と広告の影響力が大きくなったため、ひとびとが抗うつ剤の有効性を意識し、信じるようになった結果、SSRIが強い効果をもつようになった。近年はSSRIの効き目が落ちているとされるが、これは当初のプラセボ効果が消失してきたからだろう。近代医学こそがもっとも強力な「呪術医療」だったのだ。

とはいえ、プラセボはどんな症状にも効果をもつわけではない。プラセボのもうひとつの特徴は、コレストロール値や血糖値など、自分ではわからない値に影響を及ぼすという証拠がほとんどないことだ。

うつや痛みのような「意識できる症状」には効果があっても、「意識できない身体の異常」に影響を与えることはできない。このことは、プラセボが「病気の根源的なプロセスや原因にかかわることはない」ことを示している。

プラセボだと知っていても効果がある

テッド・カプチャクは1960年代に台湾や中国で東洋医学を学んだあと、マサチューセッツ州ケンブリッジに小さな鍼治療院を開いた。カプチャックの施術は評判を呼び、多くの患者を劇的に治癒させたが、そのうちになにかがおかしいと思いはじめた。患者が症状を訴え、処方箋を書いただけで治癒したこともあったのだ。

1998年、治療院の近くにあるハーバード大学医学部が漢方医学の専門家を探していて、それに採用されたことでカプチャクは本格的にプラセボ効果を研究しようと決めた。

カプチャックは、偽の鍼と偽の薬という2種類のプラセボの比較を行なった。ベネディッティは本物の薬同士で対照実験を行なったが、こちらは「偽物」同士の対照実験なのだから、これまでの常識ではなんの意味もないはずだった。

ところがその結果、「痛みにはプラセボの鍼が有効で、不眠にはプラセボの薬が有効だった」ことがわかった。さらに、特定の潰瘍治療の試験でプラセボに反応したひとの割合が、デンマークの59%に対しブラジルではたった7%しかいなかった。

だがこれは、プラセボが「効かない薬に対する心理反応」であることを考えれば当然のことでもある。それは文化的・社会的な環境(患者の心理状態)に大きく影響されるため、治療法によってプラセボの種類が異なったり、地域・文化によって効果が変化するようなことが起きるのだ。

カプチャクはこうした結果に勇気を得て、さらに大胆な実験を行なった。被験者に「この薬は有効成分が一切入っていないプラセボだ」とあらかじめ伝えたのだ(より正確には「このカプセルには有効成分は入っていないが、心身の相互作用、自然治癒のプロセスを通して作用する可能性がある」と説明した)。

プラセボ効果は偽薬を本物の薬だと思い込むことから生じるのだから、あらかじめプラセボであることを伝えてしまっては効果は消失するはずだ。だが実際には、プラセボと知りつつ飲んだ場合でも、何も飲まなかった場合と比較して痛みが30%軽くなった。

プラセボを併用することで副作用を抑える

カプチャクの研究が発表されると、オンラインでプラセボを販売する業者が登場した。医薬品と偽ってプラセボを売るのは犯罪だが、プラセボだと断ったうえで偽薬を売るのはなんの規制もない。

薬効のない偽薬を10~25ポンド(1500~4000円)でネット販売しているある業者は、ウェブサイトに「研究により、プラセボは高価であるほどよく効くことがわかっている」と説明している。これは間違いではなく、「高価な治療ほど効果も高い」以外にも次のような「プラセボの法則」がわかっている。

  • 薬のサイズが大きければ、小さなサイズより効果が高くなる
  • 1回分が2錠なら、1錠の場合よりよく効く
  • 見覚えのある商標名の錠剤は、そうでないものより効果が高い
  • 色つきの錠剤は白い錠剤よりよく効く傾向にあるが、どの色がいちばんよいかは、高めたい効果による
  • 青い錠剤は睡眠を促し、赤い錠剤は痛みの緩和に向いていて、緑の錠剤は不安に対する効果がもっとも高い
  • 治療が大げさであればあるほど、プラセボ効果が高くなる
  • 一般的には、手術は注射より、注射はカプセルより、カプセルは錠剤より効果が高い

「プラセボだとわかっているプラセボ」になぜ効果があるのかは、「パブロフの犬」で知られる条件づけによって説明できる。

なにも知らない被験者にプラセボの鎮痛剤を注射すると、その効果は0~100%の間で大きく変動する。プラセボがまったく効かないひともいれば、痛みが完全に消失するひともいるということだ。

ところが、あらかじめ本物の鎮痛薬を何度か注射されたことがある被験者に、見た目が同じプラセボを注射すると、その効果は95~100%まで劇的に上がった(大半の被験者にプラセボ効果があった)。

このことは、プラセボが身体の無意識の反応であることを示唆している。鎮痛薬の注射で痛みが消失する体験を脳がいったん記憶すると、パブロフのイヌがベルの音でよだれをたらすように、同じに見える注射によって、薬効がなくても脳はエンドルフィンを放出して痛みを抑える。そしてこの反応は、意識がプラセボであることを知っていても、無意識に(条件反射的に)起こるのだ。

プラセボの特徴が明らかになってきたことで、ノースカロライナ大学の小児科医エイドリアン・サンドラーは、この効果を利用して副作用のある治療薬の投与量を減らせるのではないかと考えた。ADHD(注意欠陥・多動性障害)の治療には脳内のドーパミンやノルアドレナリンを増強する投薬が行なわれるが、頭痛やめまい、食欲減退、不眠などの副作用のおそれがある。そこでサンドラーは、治療薬を半量にした対照群と、半量の治療薬にプラセボを加え、投薬量そのものは同じに感じられる「条件づけ」群を比較してみた。

すると、(たんに投薬量を半分にした)対照群の子どもの症状は2カ月目に著しく悪化したが、条件づけしたうえで半分にしたグループの症状は安定したままで、全量を投薬したグループと同じだった。そればかりか、薬を減らした条件づけ群の子どもたちの方が効果が高い傾向があり、それにもかかわらず副作用は全量の子どもたちより少なかった。

これは投薬の副作用に苦しむ子どもたちにとって朗報だが、製薬会社が抵抗するため、大規模な治験に進むことができていないという。

「ノセボ効果」はプラセボの負の側面

あまり知られていないが、「ノセボ効果」はプラセボ効果の影の側面だ(ラテン語でプラセボは「私は喜ばせる」、ノセボは「私は害を及ぼす」)。「病は気から」ならぬ「呪いは気から」で、ブードゥー教の呪術から女子学校での生徒の集団失神まで、超常現象などもち出さなくてもこのノセボ効果で説明できる。

80歳のアラバマの男性はブードゥー教の呪いをかけられて衰弱し、明らかに死期が近づいていた。どのように説得してももうすぐ死ぬという患者の気持ちを変えられないと判断した医師は、家族の承諾を得て強力な催吐剤を与えた。患者が胃のなかのものを吐き出すと、医師は袋に入れてひそかに持ち込んだ緑色のトカゲをこっそり取り出し、それが胃から出てきたかのように見せかけた。

驚く患者に医師は、「祈祷師が魔術を使って体内でトカゲを孵化させたのだ」と説明し、邪悪な動物がいなくなったのだからまた元気になれると請け合った。すると患者は元気になった。

これは、一部の騙されやすいひとだけのことではない。最近のアメリカとイギリスの研究では、被験者に「強力なWi-Fiの放射にさらされている」あるいは「環境有害物質を吸い込んでいる」という偽の情報を与えることで不快な症状が引き起こされた。わたしたちは、プラセボの影響を受けるのと同様に、多かれ少なかれノセボ効果の負の影響も受けているのだ。

2007年、抗うつ剤の臨床試験に参加していた29歳の男性が、恋人と言い争ったあと残っていたカプセルを一気に服用し、動悸と異常な血圧低下で病院に運び込まれた。医療スタッフは6リットルの輸液を4時間以上かけて行なったが、そのあとで臨床試験の担当者から連絡を受けた。その患者はプラセボ群に入っていて、服用したのは抗うつ剤ではなかった。患者にそのことを伝えると、15分と経たないうちに症状が消えた。

こうした症例や実験から、いまでは副作用の多くは、薬を直接の原因とするものではなく、実はノセボ効果ではないかと考えられている。うつ病から乳がんまで、新薬の臨床試験では患者のおよそ4分の1が副作用(疲労感、頭痛、集中力の欠如など)を報告するが、その比率はプラセボ群でも同じなのだ。

進化心理学者のニコラス・ハンフリーは、ノセボ効果は進化の適応として発達したのではないかという。人類はその歴史の大半を近代医学以前の、病気の原因も治療法もわからない世界で生き延びてきた。そんなときは、周囲のひとたちが嘔吐しているのに気づいたとき、自分が病気かどうかにかかわらず嘔吐を始めるのは生き延びる確率を上げたはずだ。頭痛やめまい、失神なども、危険を知らせたり治療が必要だと伝える生物学的な警戒信号なのかもしれない(肉食獣に遭遇した仲間が恐怖で卒倒したら、なにが起きたのか調べにいくよりも、自分も失神したほうが生存できたかもしれない)。

わたしたちがノセボ効果の広範な影響の下にあると考えると、プラセボに対して新しい理解が可能になる。

学生をアルプスの高地に連れていって高山病にしたベネディッティは、2014年に発表した研究で、一部の学生に「高地にいると副作用としてひどい頭痛が起こる」と警告した。するとその学生たちは、警告を受けていない学生よりもずっとひどい頭痛になった。

次いでベネディッティは、頭痛の学生たちにアスピリンと偽薬を服用させてみた。予想どおり、鎮痛剤は頭痛について警告されていた学生も、警告されていなかった学生も、どちらにも効果があった。

興味深いのはプラセボ群で、警告を受けずに(ほんものの)頭痛になった学生にはあまり効果がなかったが、警告によるノセボ効果で頭痛を起こした学生には、プラセボはかなりの効果を発揮した。

ここからベネディッティは、「プラセボが効果を発揮するのは、頭痛の余分なノセボ効果を取り除くときだけだった」と結論した。これがどこまで一般化できるかはわからないが、プラセボはなんらかの「神秘的」なちからで病気を治すのではなく、ノセボで起きていたうつや痛みなどを取り除くことで驚くような効果を示すのかもしれない。

VR(仮想現実)は新たなプラセボになるか

1975年、ニューヨーク、ロチェスター大学の心理学者ロバート・アデルは、ラットを使って「味覚嫌悪」を研究していた。味覚嫌悪は、以前、気分が悪くなった食べ物を口にすると吐き気を催す生理反応だ。

アデルはまず、ラットにサッカリンで甘味をつけた水を与え、吐き気を催させる注射をした。これでラットは甘い水と吐き気を結びつけ、水を飲むのを拒むようになった。そこで次に、スポイトで無理に水を飲ませ、ラットが不快な結びつきを忘れるのにかかる時間を調べようとした。ところがラットの吐き気は収まらず、それどころか黒魔術のように次々と死んでいった。

詳しく調べてみると、甘い水を無理に飲ませたことで免疫系が抑制され、感染症にかかっていたことがわかった。条件づけは唾液分泌、心拍数、血流量などよく知られた反応を引き起こすだけでなく、免疫系を傷つけることすらあるのだ。

その後、神経科学者のデビッド・フェルテンが、自律神経系が主要な免疫臓器である脾臓や(白血球をつくり保存する)胸腺につながっていることを発見し、脳が免疫系を制御していることを生理学的に基礎づけた。

この知見は、がんなどの難病の治療にあらたな可能性を開いた。1980年代と90年代にアラバマ大学で行なわれた一連の実験では、研究者たちはマウスに、樟脳の匂いとナチュラルキラー細胞(がんと闘うはたらきのある一種の免疫細胞)を活性化させる薬の結びつきを覚えさせたあと、マウスの身体に湿潤性腫瘍を移植した。

移植後、条件づけしたマウスには薬を投与せず、樟脳の匂いだけを嗅がせたところ、通常の免疫療法を受けたマウスより長生きした。ある実験では、条件づけだけを行ない実薬を投与しなかった2匹から、完全にがんが消えていた。

「免疫抑制プラセボ効果」の発見は過剰な投薬に苦しむ患者にとって朗報だが、ここでも製薬会社の壁が立ちふさがる。投薬量を減らすための研究にはまったく予算がつかないからだが、思いがけないところで事態は好転しつつあるという。

現代の脳科学は、疲労は身体的な現象ではなく、破壊的な損傷を防ぐために脳がつくりあげる「感覚」だとする。アンフェタミンやカフェインなど、運動能力を向上させる薬物は、筋肉そのものを増強させるのではなく、中枢神経系の「ブレーキ」を解除することで作用する(「火事場の馬鹿力」はその一例だ)。

原因不明の衰弱と疲労感に悩まされる慢性疲労症候群(CFS)は身体の病気ではなく、脳が身体の疲労感を過大評価しているのだとされている。「本来なら、人に無理をさせないための疲労感が、むしろ牢獄になっている」のだ。

この仮説が正しければ、脳を「再教育」することで症状は寛解するはずだ。そこで、非常に軽いインターバルトレーニングから脳を運動に慣れさせる段階的運動療法(GET)と、患者が病気に対してもっている否定的考えを変えていく認知行動療法(CBT)を併用したところ、かなりの効果があることが確認された。

原因不明の痛み、鼓腸、下痢、便秘に苦しむ過敏性腸症候群(IBS)の患者は世界人口の10~15%にも達する。この難病についても、身体的な損傷ではなく、脳が消化管にもつ「イメージ」が原因の可能性がある。ここで登場するのが催眠術で、暗示によって胃と腸のイメージを整えることで、どの治療も効かなかった患者の70~80%が寛解したという。さらに、「消化管に対する思考パターンを変えることで症状を永久に和らげる効果がある」ともされた。

研究者は、IBSの大きな要因が過去の開腹手術ではないかと考えている。手術によって消化管を動かされるのは脳にとってはとてつもない衝撃で、意識ではそのことを覚えていなくても、神経系には深く刻み込まれているかもしれない。開腹手術によって刺激を受け過敏になった腸の神経系は、その後、脳に増幅した痛みの信号を送るようになる。これが引き金となってIBSを発症するのではないかというのだ。

わたしたちは誰もが脳にマインドマップ(身体の地図)をもっている。その地図がなんらかの原因で脳の予想とずれると、脳は潜在的危険の警報を受けつづけることになる。その典型が幻肢痛で、事故などで切断した四肢に強い痛みを感じる。

この幻肢痛では、鏡を使って健康な手や足の像を反転させ、切断した四肢が動かせるかのように脳に錯覚させる治療法(ミラーセラピー)がよく知られている。それと同様に、マインドマップと脳の予想を合致させるような体験を人工的につくることができれば、薬物に頼らない安全な「鎮痛剤」ができるかもしれない。

こうして開発が進められているのが「VR(仮想現実)の鎮痛剤」で、すでにオキュラス(VR開発会社)のヘッドセットを利用した熱傷患者などへの治験が行なわれている。これからの鎮痛剤の臨床試験は、製薬会社ではなく、ゲーム産業からの資金提供で行なわれるようになるかもしれない。

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