リベラリズムとは、簡単にいえば、「誰もが自分らしく生きられる社会をつくるべきだ」という価値観ですが、それが世界を覆うにつれて利害が複雑に対立し、あちこちで紛争が起きるようになりました。性犯罪をめぐる刑法の規定の見直しも、そうした事例のひとつです。
現行の刑法では、被害者の抵抗が「著しく困難」でないと罪に問えないと解釈され、「必死に抵抗した形跡がない」などの理由で無罪判決が相次ぎ、社会問題になりました。法制審議会の部会に提示された法務省の試案では、従来の「暴行・脅迫」に加え、「アルコール・薬物を摂取させる」「予想と異なる事態に直面させて、恐怖・驚愕させる」など処罰対象となる8項目を例示し、性犯罪により厳しく対処する方針が示されました。
議論が分かれたのは、「意思に反して」だけを構成要件とした「不同意性交罪」の扱いです。被害者団体などは、「相手を「拒絶困難」にさせて性交する」という要件が残れば、これまでと同様に、被害者が「拒絶」したかどうかを争うことになるだけだと主張しました。
それに対して刑事弁護を手がけてきた弁護士などは、「内心そのものを処罰要件にすると冤罪リスクはさらに高まる」「「意思に反し」という要件だけで性犯罪が成立するとなると、本来は同意があったのに、結婚の破断後に「同意していなかった」と訴えられるケースが考えられる」などと反論しています。
今回の見直しのきっかけとなったのは、「極度の恐怖」を抱かせる暴力は受けていなかったなどとして、同意のない性行為が無罪になる判決が続いたことで、リベラルなメディアはこうした司法判断を強く批判してきました。それと同時に、警察・検察の強引な捜査に対しては、「冤罪は一件たりとも許されない」と主張しています。
いずれももっともですが、問題は、性行為のような密室性の高い事件では、おうおうにして客観的な証拠を提示するのが困難なことです。その結果、「疑わしきは被告人の利益に」という刑法の原則を徹底すると、性犯罪の被害者が泣き寝入りすることになってしまいます。とはいえ、「疑わしきは罰する」では、こんどは冤罪の温床になりかねません。
よりやっかいなのは、小児性犯罪の扱いです。子どもを性愛の道具として弄ぶことが言語道断なのはもちろんですが、その一方で、子どもが親や大人の誘導によってたやすく記憶を変容させてしまうこともわかっています。アメリカでは1980年代に、子どもたちの証言だけで保育士を「悪魔崇拝」で逮捕し、長期刑に処した冤罪事件が起きました。
小児性犯罪は現代社会でもっとも忌むべきものとされ、その烙印を捺された者は、殺人と同等かそれ以上のスティグマを負わされ、生涯にわたって社会的に抹殺されます。その影響を考えれば「冤罪はぜったいに許されない」はずですが、欧米では「児童虐待を厳罰に」という世論に押され、警察はあいまいな子どもの証言だけで容疑者を逮捕し、裁判所もそれを追認していると人権団体などから批判されています。
このようにして、社会のリベラル化が進めば進むほど、リベラル同士が対立するようになるのです。
参考:朝日新聞10月25日「「不同意性交罪」は見送り」
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