ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
アクセス7位は2021年2月25日 公開の「「人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した」「自己家畜化」したヒトの道徳性と邪悪さ」です(一部改変)。
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リチャード・ランガムはハーバード大学生物人類学教授で、ウガンダで長くチンパンジーを観察した行動生態学者でもある。『善と悪のパラドックス ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』(依田卓巳訳、NTT出版)はそのランガムが、「自己家畜化」をキーワードに、ヒトの道徳性と邪悪さの進化的起源に迫った野心作だ。原題は“The Goodness Paradox: The Strange Relationship Between Virtue and Violence in Human Evolution (善のパラドックス ヒトの進化における徳と暴力の間の奇妙な関係)“
本書の冒頭でランガムは、「もし人間が善良に進化したのなら、なぜ同時にこれほど卑劣なのだろうか。あるいは、邪悪に進化したのなら、なぜ同時にこれほど親切なのだろうか」と問う。そのうえで人間には「反応的攻撃性(reactive aggression)」と「能動的攻撃性(proactive aggression)」という2種類の攻撃性があり、前者を抑制することで社会的寛容を獲得する一方で、後者をより巧妙・残酷に発達させたと論じている。
ヒトのオスは攻撃性が抑制されている
「#MeToo」運動などによって性暴力やドメスティックバイオレンスなど「毒々しい男らしさ(toxic masculinity)」が大きな問題となっている。殺人や暴行などの犯罪統計を見ても、そこに歴然とした性差があることは間違いない。
2013年のWHOの調査では、身体的または性的暴力のどちらかを受けた女性の割合の平均は、主要10カ国の都市部で41%、都市部以外では51%だという。これは驚くべき数字だが、『男の凶暴性はどこからきたのか』(デイル・ピーターソンとの共著/山下篤子訳、三田出版会)の著書もあるランガムは、それにもかかわらず、男(ヒトのオス)の暴力性は他の霊長類と比べるときわめて抑制されているという。
野生のチンパンジーでは、成熟したメスの100%がオスから日常的に暴力をふるわれている。その目的は「目をつけたメスをおびえさせて、将来交尾の要求を容易に受け入れさせる」ためで、「いちばん数多く攻撃することで、ほかのオスと自分を区別させるのだ」という。
この胸の悪くなるようなやり方でほんとうにうまくいくのだろうか。だがランガムの観察では、「メスをもっとも攻撃したオスがもっとも頻繁な交尾相手となった」。進化の目的がより多くの子孫(利己的な遺伝子)を後世に残すことだとすれば、愛情などどうでもよく、「メスをおびえさせて性交を強要する戦略」はきわめて効果的なのだ。――チンパンジーは乱婚で、オスが子育てに参加しないのも大きいだろう。
このような例をあげながらランガムは、問うべきは男の凶暴性ではなく、「ヒトのオスではなぜメスへの攻撃性が大きく抑制されているのか」だという。このとき参考になるのは、チンパンジーの類縁種であるボノボだ。
ボノボ(ピグミーチンパンジー)はチンパンジーとの共通祖先から90~210万年前(人類の祖先が分岐したあと)に分かれ、異性だけでなく同性同士でもセックスを介して親密なコミュニケーションをとることで知られている。チンパンジーとは外見も社会行動(20~30頭の小集団で暮らし、メスが思春期になると群れを離れる)もよく似ているが、社会性には顕著なちがいがある。
チンパンジーが攻撃的で、ボノボが温和になった理由は「生息地の動物学上の差異」だとランガムはいう。同じアフリカの熱帯雨林でも、チンパンジーはコンゴ川の北寄り、ボノボは南寄りに暮らしている。更新世(約260万年~1万年前)の乾季にコンゴ川の水量が大きく減少したとき、北側で暮らしていた類人猿の一部が川を渡って南側に移動した。その後、水量が増えて彼らは南側に取り残されてしまった。
コンゴ川の北と南の生態学的なちがいは、ゴリラがいるかどうかだ。南側には山地がないため、たとえ川を渡ったとしてもゴリラは生きていくことができなかった。
チンパンジーとゴリラは、食べ物をめぐって競合している。そのためコンゴ川の北に生息するチンパンジーは、熟した果物や葉、茎を探すために長距離を移動しなければならず、子連れの母親とは別々になる。野生のチンパンジーの基本は単独行動なのだ。
それに対してコンゴ川の南では、ゴリラがいないために、豊富な食べ物を独占することができる。これが親密な社会の成立を可能にし、メスが安定した結びつきを築くことで「(オスに対する)防衛的な協力体制」をとるようになった。こうなると狂暴なオスは嫌われるから、メスの選好に合わせて攻撃性の低下や性的なコミュニケーションを進化させたのだという。
ランガムは、突き詰めれば「すべての生き物は環境に適応しているのだ」と述べる。オオカミの一部はヒトに家畜化されることで攻撃性を大きく減らしてイヌになった。同様にウマやウシ、ヒツジなども家畜化によって温和な性格に変わった。だがボノボはヒトの家畜になったわけではない。このように、なんらかの環境の変化で家畜のような特徴をもつようになることを「自己家畜化」という。
チンパンジーとボノボの共通祖先から500~600万年前に分岐した人類も、同様の「自己家畜化」によって攻撃性を低下させたのではないか。だとしたら、その進化を促した「環境」とはいったいなんだろう?
人類は「自己家畜化」されてきた
人類が自己家畜化の産物だと最初に唱えたのは18世紀末のドイツの人類学者ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハだとされる。1795年にブルーメンバッハは「ヒトはほかのどんな動物よりはるかに家畜化され、最初の祖先から進化している」と記した。
だがこの卓見は、20世紀に入ると不穏な気配を帯び始める。人類学者のオイゲン・フィッシャーは1914年の論文「家畜化の結果としての人種的特性」で、「アーリア人はほかの人種より家畜化されているので優れている」と主張した。金髪や白い肌に対するなかば無意識の嗜好が、すぐれたアーリア人の特徴の人為的な選択につながったというのだ。
次いで1921年、歴史家のマルティン・ブリュネーがフィッシャーの自己家畜化(自然淘汰)説を受け継いで、「もう一度自然淘汰の法則が成り立つように」不妊手術の合法化と福祉施設の廃止を提唱した。
それに対して、1973年にノーベル医学生理学賞を受賞した動物学者コンラート・ローレンツは、1940年の論文「種固有の行動の家畜化が引き起こす無秩序」で、「文明の影響で人間は過度に家畜化されたせいで魅力に欠け、幼児退行して成長できなくなった」とまったく逆の主張をした。この著名な動物学者は、「高度に家畜化された集団」を自然の理想形の劣化版と考えたのだ。
だが問題は、いずれの立場でもナチスの優生学に行きつくことだった。自己家畜化をより進化した人類への自然淘汰だと考えても、人類を劣化させるものだと考えても、国家が人種政策によって「交配」に介入することを正当化するのだ。
こうして第二次世界大戦後、自己家畜化論は人種主義につながるとして嫌悪され顧みられなくなった。それを復権させたのがロシア(旧ソ連)の遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフだ。
スターリンの粛清によって家族を失ったベリャーエフは、1959年からシベリアの細胞学・遺伝学研究所でギンギツネを使った画期的な実験を行なった。ベリャーエフの興味は、数千匹のキツネのなかから大人しい個体だけを選んでかけ合わせると、従順さが増大するだけでなく、家畜化の他の特徴も現われるのではないかというものだった。そこで、エサをやりながら身体をなでても嫌がらない子ギツネを選び、交配させてみた。
結果は驚くべきものだった。わずか3世代で攻撃性やおびえた反応を示さない個体が出現し、第4世代では何匹かの子ギツネがイヌのように尾を振って近づいてきた。第10世代になると、注意を引くためにクンクン鳴き、研究者に近づいてにおいを嗅いだりなめたりする個体が子ギツネの18%に及び、その割合は第20世代で35%、第30~35世代で70~80%になった。
そればかりではなく、選択的交配から10年目に白ブチのオスのキツネが生まれた。次に、ある種のイヌと同様に垂れ耳と丸まった尾という特徴が現われ、15~20世代後には尾や四肢が短く、(下の前歯が上の前歯より前に出る)反対咬合や(上の前歯が被りすぎる)過蓋咬合のあるキツネが出現した。さらに、家畜化されたキツネは農場のキツネよりも頭蓋骨が小さくなっていることも確認された。
繁殖周期にも大きな変化があった。選択交配の開始から3年目には、メスの6%が夏だけでなく春と秋にも子を産むようになった。10年目にはメスの40%が1年に3回出産した。これらはいずれも家畜化の特徴だ。
ダーウィンは、体毛が白く目の青い猫は耳が聞こえなくなる傾向があることに頭を悩ませた。自然淘汰が環境への適応だとするならば、生物学的に不利な特性が進化するとは考えられないからだ。
だがベリャーエフの実験は、この謎を見事に解明した。なんらかの特徴(従順さ)を基準に選択的に交配すると、それ以外のとくに意味をもたない(あるいは好ましくない)一連の身体的な変化が付随的に生じるのだ。
「家畜化症候群」には大きく以下の4つの特徴がある。
- 野生種より小型になる
- 野生の祖先より顔が平面的になり、前方への突出が小さくなる傾向がある
- 家畜ではオスとメスのちがいが野生動物に比べて小さい
- 家畜は哺乳類であれ鳥類であれ、野生の祖先より顕著に脳が小さくなる傾向がある
人類の化石にもこうした家畜化の特徴ははっきり現われている。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人など先行する人類より小型で平面的な顔貌をし、男女の骨格のちがいが小さい。より興味深いのは頭蓋容量(脳の大きさ)で、過去200万年間の人類史で着実に増大してきたが、3万年ほど前に方向転換が生じて脳が小さくなりはじめた。現代人の脳は2万年前の古代人より10~30%も小さいという。
とはいえ、脳が縮小することで認知機能がかならずしも低下するわけではない。家畜化されたモルモットの脳は野生種の祖先より体重比で約14%小さいが、より早く迷路のゴールにたどり着き、関連性を習得し、逆転学習の成績が向上している。家畜化するとなぜ脳が小さくなるのかは不明だが、ヒトの脳が小さくなっているからといって「退化」しているわけではないようだ。
平等主義の根底には暴力(処刑)がある
ヒトの「家畜化症候群」はいつ始まったのか? これを確定するのは困難だが、ランガムは「30万年前」との説を提唱する。その頃にヒトが高度な言語能力をもつようになったと考えられるからだ。
道徳性の根拠として「評判仮説」がある。「有益な人として知られることが人生の成功に大きな影響力を持ち、善行が報われ、美徳が「適応」になる」というのだ。
認知心理学者ジャン・エンゲルマンはこの仮説を確認するために、「チンパンジーは評判を気にするか?」を調べた。「被験者」となったチンパンジーは、「仲間の食べ物を盗むことができるが、それをときどき別のチンパンジーに見られる」という状況に置かれた。評判を気にするなら、見られているときに食べ物を盗む回数が減るはずだが、そのようなことはなかった。ほかのチンパンジーを手助けする実験でも同じ結果が得られた。
チンパンジーは個性のちがいを認識しており、協調性がある個体は好かれ、そうでない個体は避けられる傾向にある。それにもかかわらず、仲間から協調的に見られるように意識することはない。なぜなら彼らは話せないから。噂話をするための高度な言語・コミュニケーション能力がなければ、他人からどう思われようが関係ないのだ。
エンゲルマンは次に、就学前の5歳児でチンパンジーと同じ実験をした。すると5歳児は、チンパンジーとちがい、誰かが見ているときは盗む回数が減り、仲間を手助けすることも多くなった。ヒトは言語を獲得したことで評判を意識するように進化し、それが脳のプログラムに組み込まれているらしい。
これは「評判仮説」の有力な証拠になるが、ランガムは、これだけではヒトの攻撃性が大幅に低くなったことを説明できないという。誰でも心当たりがあるだろうが、社会には一定数のきわめて暴力的な男(女もいるかもしれないがごく少数)が存在するからだ。圧倒的なちからをもち、暴力で相手を思いどおりにできるなら、評判など気にする必要はないだろう。たんなる噂話では「暴君」に対抗できないのだ。
そこでランガムは、「処刑仮説」を提起する。高度な言語能力を獲得したことで(成人の)男たちが結託できるようになり、自分たちにとって不都合な「過剰な暴力」を排除した。暴君は個人対個人では圧倒的に優位でも、相手が徒党を組めば対抗する術はない。こうして乱暴者は処刑され、ベリャーエフのキツネと同じように、従順な個体だけが残って家畜化が進んだというのだ。
「処刑仮説」の傍証としてランガムは、ナミビアの狩猟採集民に巨大な雄牛を贈って驚かせようとした人類学者リチャード・リーの体験を紹介している。喜んでもらえるとばかり思っていたリーは、男たちから「この雄牛は痩せこけている、ただの骨の袋だ、肉がないから角を食べなければならない」などと侮辱されてショックを受けた。やがて、年長者がリーにこう語った。
「若者がたくさんの獲物をしとめると、自分をリーダーか重要人物と考え、ほかの人びとを使用人か劣った者として見るようになる。それを受け入れることはできない。いつか彼の自尊心がほかの人間の命を奪うことになるので、われわれは自慢する男を拒絶する。だからいつも、その肉には価値がないと言うのだ。そうして彼を冷静にさせて、威張らせない」
狩猟採集民の社会は「平等主義」で成り立っていて、過度に目立つ(共同体の和を乱す)者は危険視される。だからこそ、一線を越えて冗長しないように、傲慢に思える行為は徹底的に抑え込まれる。
格差社会への批判として、昨今、狩猟採集民の平等主義が再評価されているが、ランガムによれば、こうした手放しの称賛は平等主義の根底に暴力(処刑)があることを見逃している。「支配的な行為がないことが取り得の平等主義が、人間がなしうるもっとも支配的な行為によって維持されているというのは、皮肉で不穏な結論」なのだ。
もうひとつランガムの指摘で重要なのは、狩猟採集民が実現したのが「男たちの平等」であることだ。
結託して暴君を処刑する能力を得たことで大きな利益を得たのは下位の男たちだった。彼らには、その権力を女たちと分かち合う理由はない。こうして「男の連合」が女や子どもを支配し、社会を統制する仕組みがつくられた。ボス(リーダー)が下位の男性連合に支配されることは「逆支配階級制(反支配階級制)」と呼ばれるが、それは成人男子が自分たちの共通利益を守るためのネットワークで、「家父長制」の起源でもあるのだ。
「道徳」は仲間による非難から自分を守る盾
狩猟採集民は通常、1000人ほどのメンバーからなり、独自の共通言語(または方言)と、葬儀などの文化的習慣を共有する。だが食料確保の制約のため、全員が同じ場所で暮らすことはできず、平均50人以下の「バンド」という集団で生活する。
バンドにも集団の決定を主導するようなリーダーシップがあり、その範囲においては名声が重要な基準になる。リーダーは称えられ、尊敬されるが、自分の考えを押しつけることはできないし、地位を利用してバンドの構成員から何かを受け取ることもできない。「他者に命令できないということは、狩猟採集民にはボスの地位がないということだ」。
こうしたルールは、食料を保存する手段がなく(富が蓄積できない)、すべての男が働いて自分の食べ物を獲得しなければならないという制約のなかで、共同体を成立させる必要性から生まれたのだろう。そのため農耕によって富の蓄積が可能になり、下位の男による「平等の専制」が崩壊するにつれて階層性(ヒエラルキー)が現われた。リベラルな知識人のなかには、狩猟採集社会こそが人間の本性で、農耕(穀物)が社会を邪悪なものにしたと主張する者もいるが、これは話が逆で、階層性が「ヒトの本性」であり、狩猟採集社会の物理的な制約によってそれが表に出るのを防いでいたのだろう。
狩猟採集社会の「平等主義」というのは、要するに「男たちの専制」のことだった。ランガムは触れていないが、一夫一妻制というのも、男たちに女を平等に「分配」する仕組みとして定着したのではないだろうか。
傲慢や自慢が「処刑」につながる社会では、「道徳」は仲間による非難から自分を守る盾になる。わたしたちが善悪に敏感なのは、悪と判定されると殺されてしまうからなのだ。
こうして、ヒトは社会的なあやまちを指摘されると赤面するように進化したのだとランガムはいう。赤面は口先だけの謝罪よりも自責の表明として効果的で、顔を赤くしたり涙を流したりする相手をそれ以上責めようとは思わないのだ。
規範心理は「文化規範を身につけるために進化した仕組み」のことで、「誰もが従うことを期待されるルール」でもある。すべての文化は、社会化を通して子どもたちに道徳をしつけている。規範心理すなわち道徳は、「社会的な落とし穴」から身を守るために進化した。
「評判」と「処刑」の圧力によってヒト(男)は家畜化され、攻撃性を減らして同じ社会のメンバーに対して寛容になっていった。これがヒトの“善(ジキル)”の側面だとするならば、“悪(ハイド)”は何だろう?
人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した
言語という強力なツールを獲得したヒトは、男たちが共謀することで共同体内の暴力を抑制し、「反応的攻撃性」を減らしていった。だがその一方で、男たちの連合は「共謀した暴力行使」すなわち「徒党を組んだ攻撃」の大きな威力を他の社会に向けるメリットに気づいた。
狩猟採集では、「縄張り」が大きければ大きいほどより多くの食料を獲得できる。とはいえ、同じ社会のメンバー同士で殺しあっていては、他の社会から侵略を受けて全滅してしまう。ヤクザは内部抗争(内輪揉め)をきびしく禁じる一方で、できるだけ組織を大きくして、隙があれば他の組の縄張りを奪い取ろうとする。これは狩猟採集民と同じで、『仁義なき戦い』も植民地主義も、何百万年ものあいだ人類がやってきた「縄張り獲得」ゲームの繰り返しなのだ。
他の社会への徒党を組んだ攻撃は「連合による能動的攻撃性」と呼ばれるが、これは「反応的攻撃性」とはちがって認知能力が重要になる。これもヤクザの抗争と同じで、強大な敵に戦いを挑めば自滅するだけだ。「戦争」を仕掛けるのは、相手がじゅうぶんに弱く、こちらが確実に勝てる(算段がある)ときだけにしなければならない。戦争(社会と社会の闘争)は高度に知的なゲームなのだ。
「連合による能動的攻撃性」は利他主義の由来を説明する。「戦闘における自己犠牲」のような美徳は、他の社会を殲滅するために内部の結束を強めるよう進化したなかから生まれた。この適応は群淘汰(集団選択説)のように思えるが、「利己的な遺伝子」説でも利他的戦略が一定の割合で生じることが説明でき、いまだ論争が続いている(群淘汰の弱点は、自己犠牲ばかりの高潔な集団では利己的な戦略が圧倒的に有利になることだ)。
高い認知能力を獲得したヒトは、社会のなかで寛容になると同時に、異なる社会(敵)に対してはかぎりなく残酷に振る舞うよう進化した。
「なぜ殺すのか」の問いに対してランガムは、おそらく本書でもっとも議論を呼ぶであろう回答をする。「不穏ではあるけれども生物学的に意味をなす答えは、殺しを楽しんでいるからだ」というのだ。
セックスをするとき、「自分の遺伝子の複製を最大化しよう」と考えるひとはいない。異性に惹かれ、セックスを求めるのは、それが快楽と強く結びついているからだ。その「おまけ」として子どもが生まれ、遺伝子が後世に引き継がれていく。
同様に「殺し」をするときに、生存・性愛の利益を最大化するという進化論的な効果を意識する必要はない。他者(異なる社会のメンバー)を殺すのが快楽になるように脳のプログラムを「設計」しておけば、敵を皆殺しにして縄張りを拡張し、結果として適応の恩恵を受けるようになる。すなわち、「人類は見知らぬ敵を殺して楽しむように進化した」のだ。――これがおそらく、ネアンデルタール人などヒト(ホモ・サピエンス)に先行してユーラシア大陸で暮らしていた人類が絶滅した理由だろう。
ランガムの不穏な説が正しいとすると、協調や共感力、道徳心がどこまで役に立つのかは心もとない。それは本来、社会のなかで「反応的攻撃性」を引き下げる環境圧力によって進化してきた。それが社会の外にまで届いていないのなら、道徳教育は内集団びいきを強めるだけで、他者(敵)への憎悪や残酷さがより苛烈になるかもしれない。
だったらどうすればいいのか。この難問についてランガムは多くを語らず、本書の最後でこう述べているだけだ。
人類が探求すべき重要なことは、協調の促進ではない。その目標はむしろ単純で、家畜化と道徳感覚によってしっかりと基礎づけられている。それより困難な課題は、組織的な暴力が持つ力をいかに軽減させるかだ。
私たちはその道を歩きはじめたが、まだ先は長い。
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