孤独な男がジョーカーに変貌するとき(『バカと無知』まえがき)

新潮新書『バカと無知 人間、この不都合な生きもの』のまえがき「孤独な男がジョーカーに変貌するとき」を、出版社の許可を得て掲載します。発売日は明日ですが、大手書店さんなどにはすでに並んでいると思います。見かけたら手に取ってみてください。

******************************************************************************************

安倍元首相を選挙演説中に銃撃し、死亡させた41歳の男は、母親が統一教会(現、世界平和統一家庭連合)にはまり、多額の献金で家庭が崩壊したことを恨んでいたとされる。教団が主催した集会に元首相が寄せたビデオメッセージを見たことで、「日本で(この宗教を)広めたと思っていた」「絶対に殺さなければいけないと確信した」などと供述しているという。

事件の解明は今後の捜査・裁判を待たなければならないとして、ひとつだけ確実なことがある。それは男に、自分が「被害者/善」であり、統一教会と、それを象徴する(と思っていた)元首相が「加害者/悪」だという絶対的な確信があったことだ。そうでなければ、迷いなく背後から銃弾を浴びせるようなことができるわけがない。

脳のデフォルトモード・ネットワーク(DMN)は、2001年に神経学者マーカス・レイクルによって偶然に発見された。脳の活動を計測するfMRI検査では、装置のなかに横たわった被験者の「安静時」の神経活動を標準データとして記録するが、なにかに注意を向けているわけでもなく、特定の精神的タスクがない、つまり脳の「デフォルトモード」のときに活発化する部位があることにレイクルは気づいた。それは、「ぼーっとしている」ときの脳の活動だ。

デフォルトモード・ネットワークに対応するのが、外界から注意喚起されるたびに活性化するアテンショナル(注意)・ネットワークだ。この2つのネットワークはシーソーのような関係にあり、一方が活性化しているときは他方が沈黙する。

DMNの状態(ぼーっとしている)では、わたしたちはなかば無意識に、「デートに誘ったら応じてもらえるだろうか」「仕事が遅れていることを上司に報告すべきだろうか」などと、さまざまなシミュレーション(もしXならYになる/Yをする)をしている。近年の脳科学は、脳が予測と修正を繰り返す高機能のシミュレーション・マシンであることを明らかにしつつある。

このシミュレーションは、過去や未来へも延長される。「もしあのときあんなことをしなかったら、こんなことにはならなかったのに」という過去のシミュレーションは「後悔」と呼ばれ、それが「反省」や「学習」の土台になる。「もしこんなことが起きたらどうなるだろうか」という未来のシミュレーションは、「希望」あるいは「絶望」だ。

そしてここが重要なのだが、「過去」「現在」「未来」のシミュレーションをばらばらに行なっているだけでは、ほとんど役に立たない。反省や学習のためにも、希望をもつためにも、過去から未来へと一貫する「主体(わたし)」が必要なのだ。このようにして、より効率的なシミュレーションのために「自己=意識」が進化した。

脳は「わたし(過去から未来へと一貫するシミュレーション)」を物語として構成する。これは「自伝的記憶」と呼ばれるが、そこではわたしたちはみな、物語の主人公(ヒーロー/ヒロイン)だ。

誰もが「わたし」という物語を生きている。だがここにはいくつかの制約があり、どんな物語でも好き勝手に創造できるわけではない。

一つは「物理的な制約」で、アニメや映画(あるいはVR)ならともかく、現実世界では空を飛ぶことはできない。

二つめは「資源の制約」で、「お金がなくて欲しいものが買えない」というのがもっともわかりやすいが、近年では「(一日は24時間しかないという)時間の制約」が強く意識されるようになってきた。最近の若者はコスパ(コスト・パフォーマンス)ならぬタイパ(タイム・パフォーマンス)を重視し、映画を2倍速で観るようだが、これは投入できる時間資源に対して処理すべきコンテンツが多すぎるからだろう。

だがもっとも大きな影響力をもつのは「社会的な制約」だ。あなたはつねに自分の人生の主役だが、そこには他の出演者や観客がいる。そしてこのひとたちもまた、自分の人生の物語のなかでは唯一無二の主役なのだ。

ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれているから、わたしたちはこの社会的な制約のなかで、なんとかして「自分らしく」生きられる物語をつくっていくしかない。だがこうした制約がなくなってしまえば、物語は大きく歪んでいくだろう。

元首相への銃撃事件のあと、すべてのメディアが容疑者の過去を追ったが、高校を卒業して自衛隊に入隊した以外のことはほとんどわかっていない。海上自衛隊を退職したあとは、ファイナンシャルプランナーや宅地建物取引士などの資格を取り、複数の会社で派遣社員やアルバイトとして働いていたとされるが、その間のことを証言する友人などがまったくいないのだ。

男が最後に働いていたのは京都府内の倉庫だが、同僚と会話することもなく、昼食は車のなかで一人で弁当を食べていたという。母親が入信した統一教会は、強引な勧誘や霊感商法、多額の献金の強要が1970年代から社会問題になっており、脱会者や信者の家族を支援する団体も複数あるが、そうした活動に参加した形跡もない。男はたった一人で、家賃3万5000円の1Kのアパートで「復讐」のための銃や爆発物をつくっていたのだ。

2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした犯人も孤独な派遣社員だったが、それでも親身に相談に乗ってくれる故郷の友人や年上の女性がいた。元首相を銃撃した男には、いまのところ、誰かとかかわった記録がまったくない。その人生をひと言でいえば、「絶対的な孤独」ではないだろうか。

2019年の映画『ジョーカー』では、「自分はまるで存在していないかのようだ」と繰り返し訴える孤独な青年アーサーが、狂気と妄想にとらわれてジョーカーへと変貌していく様子が描かれる。

男は公開直後にこの映画を観て、〈ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない。〉と自分のツイッターにコメントしている。それ以外の投稿を見ても、自らの境遇をジョーカー(アーサー)と重ね合わせていたことは明らかだ。

この映画についての非公開のユーザーとの会話では、〈ええ、親に騙され、学歴と全財産を失い、恋人に捨てられ、彷徨い続け幾星霜、それでも親を殺せば喜ぶ奴らがいるから殺せない、それがオレですよ。〉と自分のことを語っている。これが男の「真摯な絶望」だという見方は、さほど間違ってはいないだろう。

自衛隊を退職したあと、頑張って資格を取ったにもかかわらず、仕事もうまくいかず、恋人にも捨てられた。40歳を前にして、社会からも性愛からも排除されてしまった。この現実を突きつけられることは、高い知能と能力をもつ男には耐えられない挫折だったのではないか。

〝絶対的な孤独〟のなかで、なぜ「まるで存在しないかのよう」になったのかを考えていくうちに、人生をさかのぼって教団が悪魔化されていった。自分が純粋な被害者(善)だという物語をつくろうとしたとき、教団とかかわりがあった(とされる)この国でもっとも有名な政治家が、絶対的な「悪」として立ち上がってきたのではないだろうか。

そしていったんこの物語に支配されてしまうと、そこから抜け出すことは不可能だったのだろう。なぜなら、その物語こそが彼のすべてだったのだから。

本書は、このような「やっかい」な存在であるわたしたちの話だ。