ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回から、アクセスが多かった記事を順にアップしてきます。アクセス1位は2016年5月20日公開の「「知能や気質は、人種ごとに遺伝的な差異がある」言ってはいけない残酷すぎる真実」です(一部改変)。
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イギリスの科学ジャーナリスト、ニコラス・ウェイドの『人類のやっかいな遺産 遺伝子、人種、進化の歴史』( 山形浩生、 守岡桜訳、晶文社)は、これまでPC(political correctness/政治的正しさ)の観点から「言ってはいけない」とされてきた分野に大胆に切り込んだ問題作だ。ウェイドは本書でなにを主張したのか。膨大なエクスキューズを後回しにして結論だけをいおう。
約5万年前にアフリカを出た現生人類は、ヨーロッパ、アジア、アメリカ、オーストラリアなど(比較的)孤立した環境のなかで独自の進化を続けてきた。この進化の影響は、肌や髪の毛、目の色だけでなく、知能や気質など内面にも及んでいる。これが、人種によって社会制度や経済発展の度合いが異なる理由だ。
これがどれほど不穏な主張かは、「アフリカはなぜいつまでも発展しないのか」という問いを考えてみれば即座に了解できるだろう。だが「政治的」に許されないはずのこうした主張は、ゲノム解析技術の急速な進歩によって、現代の進化論のなかで徐々に説得力を増してきている。
「人種にかかわらず人間の本性は同じ」は本当か?
「身体的な機能と同様に、ひとのこころも進化によってつくられてきた」と考える進化心理学は、その存在自体がリベラルの逆鱗に触れるものではあったが、それでも社会のなかでなんとか居場所を確保してきた。「進化のスピードを考えれば、ひとのこころは旧石器時代と変わらない」としたからだ。「現代人がさまざまな問題を抱えているのは、原始人のこころのままコンクリートジャングルに暮らしているためだ」というのはひとびとの直観に合致していたし、なによりも「人種にかかわらず人間の本性(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)は同じ」というのは「政治的」な心地よさがあった。
だが「科学」の立場からは、こうした前提がきわめて不安定なのは明らかだ。白人、黒人、アジア系では外見が異なり、アフリカから分かれた6~5万年のあいだに独自の進化が起きたことは間違いない。だが人種ごとに身体的特徴を大きく変えたその進化は、どういうわけか気質的、精神的特徴にはいっさい手をつけなかった、というのだから。
「文化や社会は遺伝・進化の強い影響下に置かれている」という考えは、1970年代にアメリカの生物学者E.O.ウィルソンが大著『社会生物学』で示唆し、リベラル派からはげしい批判を浴びていた。当時、ウィルソンはこの仮説を証明するデータを提示できなかったが、「遺伝と文化が共進化する」という発想はきわめて斬新なものだった。
その後、「社会生物学論争」という米アカデミズム内の激烈なイデオロギー闘争を経て、進化論の科学者とリベラル派のあいだでいちおうの妥協がはかられた。それが、「人間の本性には遺伝的な基盤があるが、そこに人種間のちがいはない」というPC的な主張になっていく。
だがウェイドや、『一万年の進化爆発 文明が進化を加速した』(古川奈々子訳、日経BP社)で同様の理論を展開したアメリカの人類学者グレゴリー・コクランとヘンリー・ハーペンディングは、「そんなのはデタラメだ」と一蹴する。たとえばウェイドは、次のようにいう。
歴史は人類進化の枠組みの中で起こる。この2つの主題は別々に扱われ、まるで人類進化がいきなり止まってから、かなり時間が経って、歴史が始まったかのように論じられる。でも進化は急に止まれない。そんな都合のいい進化の休止が起こったなどという証拠はまったくない。ゲノムからの新しい知見はますます、進化と歴史が相互に絡み合っていることを示している。
こうした主張に対する有力な“科学的”反論は、「異なる人種のあいだの遺伝的なちがいよりも、同じ人種のなかでの遺伝的なばらつきの方がはるかに大きい」というものだ。ヒトの遺伝的変異の85%は集団の内部で見られ、集団間の差異は15%にすぎない。したがって、集団(人種)の遺伝的なちがいをことさらに強調するのは科学的に意味がない、というわけだ。
だがコクランとハーペンディングは、「イヌの遺伝的変異の分布を調べても、遺伝的なちがいの70%は品種内で、30%は品種間で見られる」と反論する。PC派の理屈が正しいのなら、「グレートデンとチワワのちがいを語ることは非科学的だ」という荒唐無稽な話になってしまうのだ。
愛犬家なら誰でも知っているように、イヌの気質は品種によって大きく異なる。その一方で、すべてのイヌに共通する“ドッグ・ユニヴァーサルズ(イヌの本性)”があり、同じ品種でもさまざまな個性を持つ。
著者たちによれば、人種のちがいもこれと同じだ。私たちはみな進化の過程でつくられてきた「人間の本性」を共有しつつ、それぞれに個性的だが、最近(数万年)の進化によって、人種ごとに異なる外見、異なる気質を持つようにもなったのだ。
白人と黒人の知能の違いは、環境か、遺伝か?
ここまでなら多くの日本人は「当たり前の話だ」と思うかもしれないが、欧米(とりわけアメリカ)では、こうした主張は重大な含意を持つ。白人と黒人の知能の差をめぐる深刻な政治的対立に直結するからだ。
このきわめてセンシティブな問題については拙著『言ってはいけない』(新潮新書)で概略を説明したが、ここではウェイドの文章をそのまま抜粋しよう。
IQ論争の両陣営は、遺伝派と環境派と考えてよい。どちらもアメリカでIQ試験をすると、ヨーロッパ系アメリカ人が100となり(これは定義でそうなる――彼らのIQ試験の得点は100に正規化される)、アジア系アメリカ人は105、アフリカ系アメリカ人は85から90となる。アフリカ系アメリカ人はヨーロッパ系の得点より目に見えて低い(15点、あるいは1標準偏差分だ、と遺伝派は指摘する。いやたった10点だ、と環境派は言う)。ここまではどちらも合意する。論争は、ヨーロッパ系とアフリカ系の得点差の解釈で生じる。遺伝派は、得点差の半分は環境要因によるもので、半分は遺伝によるものだと主張する。ときにはこの比率が、環境2割、遺伝8割とされることもある。環境派は、この差のすべてが環境的な疎外要因によるもので、それが解消されればこの差は最終的になくなると主張する。
この論争は、じつは科学的にはほぼ決着がついている。一卵性双生児や二卵性双生児の比較から遺伝の影響を調べる行動遺伝学では、認知能力のうちIQに相当する一般知能の77%、論理的推論能力の68%が遺伝によって説明でき、環境の影響が大きいのは(親が子どもに言葉を教える)言語性知能(遺伝率14%)だけだとわかっているのだ(安藤寿康『遺伝マインド』有斐閣)。
白人と黒人の知能の格差(ウェイドがいうようにこれは“事実”で、リベラル派にも異論はない)が異なる進化の結果だということになると、黒人の経済的苦境は過去の奴隷制や人種差別のせいではなく、黒人など人種的マイノリティに経済的・社会的支援を行なうアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)の根拠もなくなってしまう。これがアメリカ社会にとってどれほどの衝撃かはいうまでもないだろう。
それだけではなく、現代の進化論の不穏な主張はさらに「やっかいな」問題を引き起こす。『人類のやっかいな遺産』でウェイドは、「人種と進化の理論」をグローバルに拡張するのだ。
「人種ごとに遺伝的な差異があり、それが知能や気質にも影響している」
世界には、経済的に発展し政治的にも安定している国(主に欧米諸国)もあれば、経済的に貧しく政治的混乱が続いている国(主にアフリカや中東諸国)もある。なぜこのようなちがいが生まれたかは、これまで歴史的経緯によって説明されてきた。アフリカは奴隷貿易と帝国主義列強の分割・植民地化によって搾取され、社会の基盤を徹底的に破壊されたために苦しんでいるのだ、というように。
だがPC的に居心地のいいこの解釈は、1980年代からアジアの経済成長が始まり、2000年以降、それが加速して中国が世界2位の経済大国になるに至って大きく揺らぎはじめた。
「4匹の龍」と呼ばれたアジアの新興国のうち韓国と台湾は日本の旧植民地、香港とシンガポールはイギリスの旧植民地で、中国はアフリカ同様、欧米列強と日本による侵略に苦しんだ。東南アジアでも、イスラームを国教とするマレーシアや、世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシア、アメリカとの戦争で国土が荒廃したベトナム、ポルポトの大虐殺という現代史の悲劇を経験したカンボジアが次々と経済発展にテイクオフし、軍事独裁国家の“秘境”ミャンマーまでが民主化を達成し、いまや空前の不動産バブルに湧いている(その後、クーデターが起きて軍政に戻った)。
アフリカにもルワンダやボツワナのように政治的・経済的に安定した国はあるものの、この20年のアジアの変貌と比べればその差は目もくらむほど大きい。だとしたら、アジアとアフリカを分かつものはなんなのか?
この問いに対してジャレド・ダイアモンドは世界的ベストセラーとなった『銃・病原菌・鉄』(倉骨彰訳、草思社文庫)で、「横に長いユーラシア大陸と、縦に長いアフリカ大陸、南北アメリカ大陸の地理的なちがい」というエレガントな説を提示した。農業は人類史を画する革命だが、このイノベーションは同程度の緯度の地域にしか広まらない。アフリカ南部でもヨーロッパと同じ農業を営む条件は揃っているが、知識や技術はサハラ砂漠や熱帯のジャングルを越えることができなかったのだ。
だがウェイドは、これはものごとの半分しか説明していない批判する。
大陸ごとに知識・技術の伝播のちがいが生じるのはそのとおりだが、これは地形が人の移動を制限するからだ。ダイアモンドは「人種などというものは存在しない」と断言するが、皮肉なことに、彼の理論は「孤立した集団が異なる進化を遂げた」という現代の進化論を補強しているのだ。
アメリカの歴史学者ニーアル・ファーガソンは『文明 西洋が覇権をとれた6つの真因』(仙名紀訳、勁草書房)などで、東洋の専制政治に対して西洋は分散化した政治生活とオープンな社会を生み出し、そこから所有権や法の支配、科学や医学の進歩など数々のイノベーションが生まれたと説く。
アメリカの経済学者ダロン・アセモグルとジェイムズ.A.ロビンソンも『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』(鬼澤忍訳、ハヤカワNF文庫)で、「経済発展できるかどうかは制度によって決まる」と主張した。
韓国と北朝鮮は人種的には同一で、文化や歴史もほとんど変わらないが、いまや一方は先進国の仲間入りをし、もう一方は世界の最貧国だ。なぜこのような大きな差がついたかは、歴史的な偶然(民族分断の悲劇)によって異なる制度を持つようになったことからしか説明できない――これもまたきわめて説得力のある論理だ。だが問題は、こうしたケース(旧西ドイツと旧東ドイツも同じ)を地球全体にそのまま拡張できるのか、ということにある。
ウェイドは、政治的成熟や経済発展に制度が重要だとしても、朝鮮半島のように異なる制度に分かれた経緯が明快に説明できるのは稀有なケースで、ほとんどの場合、なぜある国が経済発展に有利な制度を持ち、別の国が不利な制度を持つようになったかはわからないままだと批判する。
「西洋はたまたま産業革命を達成し、中国はたまたま停滞し、アフリカはたまたま取り残された」というだけでは、なんの説明にもなっていない。だが遺伝と文化が共進化すると考えるなら、ヨーロッパ、アジア、アフリカで異なる文明や社会が生まれた理由を、より根源的に解き明かすことができるだろう。
「人種ごとに遺伝的な差異があり、それが知能や気質にも影響している」という現代の進化論の知見を拡張していくなら、ここまでは論理的必然だ。同様の主張を婉曲に述べる論者はこれまでもいたから、ウェイドの“功績”はPC的な制約を乗り越えて、「人種と進化」をはじめて堂々と口にしたことにあるのだろう。
農業の開始と自己家畜化
なぜ人種によって進化の度合いが異なるのか。これにはさまざまな要素があるが、そのなかでも決定的に重要なのは約1万年前の農業の開始だ。これについてはコクランとハーペンディングの『一万年の進化爆発』が詳しいので、それに即して現代の進化論の主張を見てみよう。
農業の開始は現生人類の生存環境に劇的な変化をもたらした。ある程度裏づけのある推測によれば、10万年前の世界人口は、アフリカの現生人類とユーラシアの旧人類(ネアンデルタール人など)を合わせて50万ほどしかいなかった。現生人類がユーラシア大陸に拡散した1万2000年前(氷河期の終わり)でも、その数は600万人程度だった。だが農業という技術イノベーションでカロリー生産量が急激に高まったことで、紀元前1万年から西暦1年までのあいだに世界人口は100倍まで増加したのだ(推定値は40~170倍)。
農業が現生人類に与えた最大の変化は、食糧を求めて少人数で広大な大陸を移動する狩猟採集生活から、土地にしばりつけられた人口密度の高い集団生活に移行したことだ。これによって人類は感染症の危険にさらされることになって免疫機能を発達させ、炭水化物を大量摂取しても糖尿病になりにくい体質へと“進化”した。
狩猟採集生活をしていたり、農業を始めてから歴史の浅い新大陸(アメリカやオーストラリア)の原住民がヨーロッパ人との接触で天然痘などに感染して甚大な被害を受けたことや、大量の炭水化物を経験したことのない彼らが糖尿病にかかりやすいことはここから説明できる。また穀物を発酵させてつくる酒も農業革命以降の発明で、耐性のない新大陸の原住民のあいだでアルコール依存症が深刻な問題になっている。
だがそれ以外でも、「農業による集団生活」というまったく新しい環境は、人類に対してさまざまな自然淘汰の圧力を加えた。
狩猟採集生活では獲得した獲物はその場で食べるか、仲間と平等に分けるしかなかったが、貯蔵できる穀物は「所有」の概念を生み出し、自分の財産を管理するための数学的能力や、紛争を解決するための言語的能力が重視されるようになった。
その一方で、狩猟採集社会では有用だった勇敢さや獰猛さといった気質が人口過密な集住社会(ムラ社会)では嫌われるようになった。牧畜業では気性の荒い牛は仲間を傷つけるので真っ先に排除される。それと同様に、農耕によってはじめて登場した共同体の支配者(権力者)は自分に歯向かう攻撃的な人間を容赦なく処分しただろうし、また農村社会においても、攻撃的な個人はムラの平和を乱す迷惑者として村八分にされたり、ムラから追い出されたりしただろう。農耕社会では、温厚な気性が選択的に優遇されたのだ。
旧ソ連の遺伝学者ドミトリ・ベリャエフは1950年代に、古代人が野生動物をどのように家畜化したかを知るために、(人間にはなつかない)ギンギツネのなかからおとなしい個体を選んで育ててみた。すると驚くべきことに、わずか8世代で人間が近くにいても平気なギンギツネが生まれた。実験開始からたった40年、30世代から35世代ほどの交配で、キツネたちはイヌなみにおとなしく従順になり、毛皮に白い斑点ができ耳が垂れた。
キツネの品種改良を人間に当てはめるのは突飛に思えるが、じつはDRD4(ドーパミン受容体D4)遺伝子の7R(7リピート)対立遺伝子で興味深い事象がわかっている。この遺伝子はADHD(注意欠如・多動症)に関係し、落ち着きのない衝動的な振る舞いや注意散漫などを引き起こすとされる。欧米をはじめ世界各地でこの遺伝子の遺伝的多型がかなりの頻度で見られるが、東アジアではまったくといっていいほど存在していないのだ。
中国では、7R対立遺伝子に由来する対立遺伝子がかなり一般的なのに、ADHDを引き起こす7R対立遺伝子だけがきわめて稀だ。自然状態でこのようなことが起こるとは考えられないから、中国社会では7R対立遺伝子を持つ者は、人為的に徹底して排除された可能性がある。
コクランとハーペンディングは、農業がもたらした異常な環境に直面した人類は、それに適応できるよう自分で自分を「品種改良」したのだと述べる。現代の進化論が提示する仮説では、「現代人は“家畜化”されたヒト」なのだ。
オオカミとダックスフント
農業によってもたらされた“1万年の進化爆発”を私たちはどのように考えればいいのだだろうか。ここには2つの観点がある。
ひとつはウェイドが『人類のやっかいな遺産』で示唆するように、「工業社会や知識社会では、農業を経験した人種とそうでない人種の間には適応度にちがいがある」というものだ。サハラ砂漠以南のアフリカでも農業が行なわれていたが、規模は小さく歴史も短いためじゅうぶんに“進化”することができなかった。
それに対してユーラシア大陸で1万年にわたって農業を行なってきたコケイジャン(白人)やアジア人は、ムラ社会の習慣をそのまま学校・軍隊・工場などに持ち込むことで容易に適応することができた。これがたんなる文化のちがいだったら、アフリカ人やオーストラリアのアボリジニもすぐに真似できるはずだ。なぜ上手くいかないかというと、文化や習慣の背後に遺伝的・進化的基礎があるからだ――という話になる。
これはきわめて危うい論理だが、視点を変えればちがう景色が見えてくる。
先に述べたように、現代社会において経済的な成功を手にしたのは自らを“家畜化”した人種だ。これを逆にいえば、アフリカ人やアボリジニは「家畜化されていない」ということになる。白人をダックスフント、アジア人をチワワとするならば、彼らはオオカミなのだ。
チワワやダックスフントがオオカミより優れているとはいえないように、“家畜化という進化”を経た人種を家畜化されていない人種よりも優秀だとする根拠はない。進化論は科学であって、人種の優劣を論じるイデオロギーではない。
だが、この“新しい科学”をアフリカのひとたちが素直に受け入れるのはきわめて難しいだろう。欧米諸国はアフリカに巨額の援助(ウェイドによれば過去50年間に2.3兆ドル)を投入してきたが、それでもアフリカの生活水準が改善しないのは過去の植民地支配のせいではなく、遺伝的・進化的な理由だというのだから。責任ある立場のひとがこれを口にすれば、アメリカにおけるアファーマティブアクションをめぐる論争(というか罵り合い)を何倍、何十倍にも拡大する騒ぎを引き起こすことは間違いない。
フランスのアフリカ植民地支配では、フランス語を話しフランス式の高等教育を受けたアフリカ人は「エヴォリュエ(進化した者)」と呼ばれた。ヨーロッパによるアフリカの植民地化は、「進化の程度の低い原住民を訓育して幸福にする」というパターナリズム(温情主義)によって正当化されてきた。人種と進化についての科学は、この人種的偏見に科学的な根拠があったとの政治的主張を生み出しかねない。これが、(アカデミズムを含む)ほとんどのひとが人種と進化の関係を否定するばかりか、その話題に触れることすらも拒絶する理由だろう。
しかしそれでも、今後DNAの解析が急速に進むにつれて、人種による気質や性格のちがいに遺伝的な基盤があることを誰も否定できなくなるとウェイドはいう。そしてこれは、おそらく正しいのだろう。
だがこれは、現代の進化論が人種差別的な科学だということではない。科学的な知見が人種差別につながらないような社会をわたしたちが築いていかなくてはならない、ということなのだ。
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