ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2018年8月30日公開の「2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという野心的なプロジェクトはその後どうなったのか?」です(一部改変)。
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人類社会が新たな千年紀(ミレニアム)を迎えた2000年9月、ニューヨークの国連ミレニアム・サミットで、2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという野心的な「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)」が採択された。
しかし、いったいどうすればこんなことが可能になるのだろうか。「そんなの、ものすごく簡単だよ」といったのが、開発経済学者のジェフリー・サックスだ。2005年に発売された『貧困の終焉――2025年までに世界を変える』(鈴木主税訳、早川書房)は世界的なベストセラーになった。そこでサックスが唱えたのが「ビッグプッシュ理論」だ。
ロックグループU2のボノや女優アンジェリーナ・ジョリーが熱心な応援団(広告塔)になったことで大きな話題を集めたが、最近ではサックスの名前を目にすることはほとんどなくなった。あの話はいったいどうなったのだろう。
そう思ってニナ・ムンク(Nina Munk)の“The Idealist: Jeffrey Sachs and the Quest to End Poverty (イデアリスト:ジェフリー・サックスと「貧困の終焉」の追求)”を読んでみた。
「イデアリスト(理想主義者)」を取材する
著者のムンクは『ニューヨーク・タイムズ』などを経て米誌『バニティ・フェア』で活躍するジャーナリストで、タイムワーナーとAOLの「世紀の合併」の内幕を描いたビジネス・ノンフィクションで注目され、その後はグローバル経済の勝者にして現代の王侯貴族であるヘッジファンド・マネージャーなどを取材した。
だが彼女は、そうした「金持ちの話」にすぐに飽きてしまった。そんなときに出会ったのがサックスの『貧困の終焉』で、ムンクは次の取材ターゲットを「グローバル経済の敗者」すなわち世界の最貧困層にすることを思いついた。
サックスにとっても、ムンクからの取材依頼は渡りに船だった。「ビッグプッシュ理論」を実現するには先進国、とりわけアメリカ社会・政財官界の支持を必要としており、『バニティ・フェア』は大きな影響力をもつ大衆誌だった。こうして両者の利害は一致し、ムンクにはサックスがアフリカで行なうプロジェクトを自由に取材することが認められた。
ムンクはサックスと一対一で繰り返し長時間インタビューしたほか、「貧困の終焉」を目指すサックスのさまざまな活動にも随伴し、「ミレニアム・ヴィレッジ」と名づけられたアフリカの貧しい2つの村をほぼ5年間にわたって訪れた。
こうして2013年に満を持して発表したのが“The Idealist”で、文字どおり「理想主義者」のことだ。その徹底した取材は驚嘆すべきもので、欧米で大きな反響を巻き起こし、数々の賞にノミネートされ、フォーブズやブルームバーグ、Amazonなどで「ブック・オブ・ザ・イヤー」の1冊に選ばれたのも当然だろう。
日本では『貧困の終焉』をはじめサックスの著書の多くが翻訳されているが、残念なことに、その結末を描いた “The Idealist”は日本語になっていない。原書発売から5年を経ていることもあり、今後も翻訳される可能性は低そうなので、ここで概要を紹介してみたい。
「ビッグプッシュ理論」という福音
絶対的貧困(Extreme Poverty)とは、「人間として最低限の生活(ベーシック・ヒューマン・ニーズ)」が達成されていない状態で、物価の変動を反映させるための何度かの改定を経て、現在は1日1.90ドル(約200円)以下での生活を余儀なくされているひとたちをいう。
サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカは世界でもっとも絶対的貧困の割合が高い地域で、人口のおよそ半分、4億人以上が「最低限の生活」ができない状態に置かれている。なぜこのような理不尽な現状が放置されているのだろうか。そもそもなぜ、ブラックアフリカはこれほど貧しいのか。
ここで多くのひとは、「奴隷貿易によって搾取されたから」と考えるだろう。もちろんこれは、現在でももっとも説得力のある説明のひとつだが、欧米ではあまり評判がよくない。イギリス、フランスなどアフリカの旧宗主国の白人にとっては過去の傷口に塩をすり込まれるようなものだし、“贖罪”のために莫大は援助(過去50年間に2.3兆ドルとされる)をしたにもかかわらず経済発展にテイクオフできないのは、政治家や官僚の腐敗などアフリカの「自己責任」ではないかとの(感情的な)反論を招き寄せるからだ。
「アフリカ自己責任論」は、誰も公には口にしないものの、「アフリカが発展できないのは人種的に劣っているからだ」という人種主義(レイシズム)を含意している。1970年代まではアフリカ諸国より絶対的貧困率が高かった中国が、わずか30年で「世界第2位の経済大国」へと見事に変貌したことが、こうした主張を勢いづかせた。アフリカの経済援助にかかわる白人の専門家のなかでは、これが暗黙の常識になっていることは公然の秘密だ。
しかしサックスは、「アフリカの貧困は植民地主義時代の“歴史問題”によるものでも、アフリカ人が劣っているからでもない」というエレガントな説明を提示した。「絶対的貧困に苦しむひとたちは、ゆたかさの階段の最初のステップに足をかけることができない」のだ。
サックスによれば、アフリカの最貧困地域には満足な医療制度も、社会保障制度も、教育制度もなければ、農業の生産性を高めるための灌漑設備や化学肥料、高収量品種の種子もない。その結果、いくら働いても貧しいままという負の連鎖にはまってしまう。「貧困の罠」の本質は初期資本が欠けていることなのだ。
最初のステップに足をかけることができなければ、誰も階段を昇ることはできない。これは逆にいえば、一段目に足をかけることができさえすれば、あとは自分で「ゆたかさへの階段」を昇っていけるということだ。これがサックスの「ビッグプッシュ理論」で、「いちどの大規模な援助によって貧しいひとたちを階段の一段目までもち上げれば、彼らは貧困の罠を抜け出せる」と説いた。
サックスはこれを、「“M word”から“B Word”へ」という。必要なのはMillion(100万ドル)単位ではなくBillion(10億ドル)単位の資金なのだ。
「貧困をなくすための投資には莫大なリターンがある。年間660億ドル(7兆円)を投資すれば800万人の生命を救い、同時に年間3600億ドル(40兆円)の経済的な利益を生み出せる」と、サックスは開発援助関係者の腰が抜けるような数字をあげてみせた。
この「福音」が欧米のリベラルなひとびとに熱狂的に受け入れられた理由は明白だ。サックスの「ビッグプッシュ理論」が正しいとするならば、最初にちょっと気前のいい援助をするだけで永遠に罪悪感から解放されるのだから。
「ショック・セラピー」の伝道師からの転身
ジェフリー・サックスは1954年にミシガン州デトロイト郊外で高名な弁護士の息子として生まれ、幼少期から“神童”の名をほしいままにした。当然、法律家になるだろうとの両親の期待に反してハーバード大学では経済学を専攻し、弱冠28歳でハーバードのテニュア(終身教授)の資格を取得した。
サックスの名声を確立したのは、経済学への理論的貢献ではなく華々しい実践によるものだった。
1985年、南米のボリビアが自由主義経済の導入に舵を切ったとき、31歳のサックスは経済政策顧問として招かれ、大胆な財政改革・市場改革を進言した。財政健全化による失業率の増大などの副作用はともなったものの、これによって1万4000%のハイパーインフレを見事に抑え込んだことでサックスは一躍、開発経済学のスターとなった。新自由主義(ネオリベ)にもとづくサックスの劇薬ともいえる処方性はその後、「ショック・セラピー」と呼ばれるようになる。
冷戦が崩壊した1989年、サックスは民主化を達成したばかりのポーランドに招かれ、「連帯」指導者の一人で民主ポーランドの初代首相となったマゾヴィエツキの求めに応じてわずか1日で処方箋を書き上げた。この「ショック・セラピー」も、さまざまな弊害をともないながらも、ポーランドが短期間に自由経済に移行するのに大きく貢献したとみなされ、若きサックスの名声は頂点に達した。
翌1990年、サックスはボリス・エリツィンに招かれ、新自由主義的な経済改革をアドバイスすることになる。だが案に相違して、ロシアは経済発展へのテイクオフに失敗したばかりか、国営企業の無謀な民営化によって「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が跋扈する異形の経済が誕生し、1998年にはロシア金融危機を起こして財政破綻してしまった。
それまでの成功に対する嫉妬ややっかみもあるのだろうが、これによって「ショック・セラピー」の伝道師としてのサックスの評判は地に堕ちた。「ミルトン・フリードマンなどの古臭い経済理論を巧みに売り歩くだけのプレゼンテーション屋」と皮肉られるようになったのだ。――ちなみにサックスはロシアでの「失敗」について、急進的な市場改革をエリツィンに指南したディック・チェイニー(ブッシュ政権副大統領)、ロバート・ルービン(クリントン政権財務長官)、ローレンス・サマーズ(同)ではなく自分だけが非難されるのは不当だとムンクに語っている。
いずれにせよ、新たなミレニアムを迎える頃には、サックスの名声は危機に瀕していた。だが『貧困の終焉』の成功によって、サックスはこの逆境を跳ね返したばかりか、ロックスターやハリウッドのセレブ、さらには国連事務総長(潘基文)まで巻き込んで、かつてよりずっと大きな注目を手に入れることになった。
「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」に魅せられた純心な若者たち
ジェフリー・サックスは、「絶対的な貧困を終わらせることは簡単(easy)」だという。だとすれば、これまで長年、貧困を改善しようとたたかってきた欧米の開発経済学者や貧困救済団体はいったいなにをしてきたのだろうか。
「彼らは最初からやり方を間違えていたのだ。なぜなら“経済学的に無知(economically ignorant)”で“バカ(idiots)だから」
サックスの理屈ではそうなるほかはないし、実際、巨大なエゴの持ち主で「傲慢」と忌み嫌われたサックスは“良心的”な貧困問題の専門家を面と向かって罵倒した。当然のことながら、主流派の開発経済学者との非難(というか罵詈雑言)の応酬が勃発した(ウィリアム・イースタリー『エコノミスト 南の貧困と闘う』 小浜裕久訳、東洋経済新報社)。
サックスは、こうした「無理解」と戦うために、なんとしても「ビッグプッシュ理論」の正しさを証明する必要があった。そこで、持ち前の「プレゼンテーション能力」を発揮して慈善団体などから1億2000万ドル(約130億円)もの巨額の資金を集め、アフリカのもっとも貧しい地域にある10の村で大規模な実験を行なうことにした。最大の理解者はジョージ・ソロスで、サックスのプロジェクトに5000万ドルを出資した。
1日の生活費が2ドル以下で暮らすひとたちの村に、1カ所あたり10億円を超える投資をするのだから、まさに「ビッグプッシュ」だ。サックスはこれを、国連のミレニアム・プロジェクトにちなんで「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト(Millennium Village Project:MVP)」と名づけた。
エチオピア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、マラウィ、ルワンダ、ナイジェリア、ガーナ、マリ、セネガルにつくられたサックスのミレニアム・ヴィレッジのなかから、ジャーナリストのニナ・ムンクは、ケニア北東部でソマリアとの国境近くにあるダートゥ(Dertu)と、ウガンダ南西部の高地にあるルヒーラ(Ruhiira)という村を定点観測に選んだ。
ダートゥの現地責任者はアーメド・マリ-ム・ムハンマドという40代のソマリ人で、大半のソマリ人と同じくラクダの群れとともに移動する遊牧民の子どもとして生まれたが、幸運にも(もちろん本人の努力もあって)高等教育を受けることができ、国内の農業大学で学位を、留学したベルギーの大学で「乾燥地帯の自然資源の管理」の博士号を取得した。
ケニアに帰国すれば高級官僚の道が約束されているアーメドが選んだのは、サックスのミレニアム・ヴィレッジだった。自分が幼い頃に経験し、いまも多くの同胞たちが苦しんでいる貧困を終わらせることができるという「偉大なる博士の理想(the Great Professor’s Ideas)」の魅力はそれほど強烈だったのだ。
ルヒーラの現地責任者は30代半ばのデイヴィッド・シリリで、ウガンダ独立(1962年)後に数学教師の父親と病院の助産婦の母親という新興中流階級の家庭に生まれた。だが幸福な日々はイディ・アミンの独裁によって終わり、社会秩序の混乱と崩壊のなかデイヴィッドの両親は家を捨てて逃れるほかなかった。
アミンの失脚(1979年)によってその蛮行が欧米で広く知られるようになると、社会福祉団体などからの支援金が送られてくるようになった。デイヴィッドは幸運にもその資金を得て学校に復帰し、10万人の応募者に合格者2000人という難関を突破してウガンダ国立大学に入学、イギリスの大学に留学して農業・森林学の博士号を取得した。その直後にミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに参加したのはアーメドと同じだ。
サックスは2002年にハーバードからコロンビアに移籍していた(コロンビア大学は有名教授であるサックスを招聘するために800万ドル(約9億円)でニューヨーク・マンハッタンに庭付きタウンハウスを用意した)。ミレニア・ビレッジ・プロジェクトの本拠はコロンビア大学内に置かれ、アーメドやデイヴィッドのようなアフリカ生まれの優秀な若者がそれぞれの村の責任者として派遣された。
彼らは、サックスの「貧困救済教」というカルト宗教に魅せられた高学歴で純真な「信者」たちだった。
押し寄せる難題
サックスは、2006~11年の5年間の「ビッグプッシュ」でミレニアム・ヴィレッジは自立したゆたかな村に変貌すると豪語した。その成功にもとづいて、同じプロジェクトを世界じゅうに広げれば、2025年までに人類の貧困は終焉するのだ。現地責任者であるアーメドやデイヴィッドに与えられた使命は、巨額の資金を有効活用して医療・教育・農業・産業振興のためのインフラを整備することだった。
彼らの苦闘がニナ・ムンクの『アイデアリスト』の読みどころなのだが、そのすべてを紹介することはできないので、ここでは経緯のみをかんたんにまとめておこう。
アーメドが担当したダートゥは国家としてはケニアに属しているがもとはソマリ人の遊牧地だった。サックスが集めた資金で病院や学校などを整備したことで街の人口は急速に増え、藁ぶき屋根は真新しいトタン屋根になり、雑貨店やレストランもできて、近隣のなかでももっとも繁栄する村に生まれ変わった。だが問題は、ひとびとを養う産業が存在しないことだった。
遊牧民にとってはより多くのラクダを保有することがステイタスで、労働は卑しむべきこととされ、農業はもちろん建築などの仕事に従事させることも論外だった。こうしてダートゥは、慈善団体の資金に依存する難民キャンプの様相を呈してきた。村に集まってきた元遊牧民たちは、日がな一日木陰で噂話に興じ、アーメドたちに苦情をいった(支援金で1人1軒の家を建て、灌漑のために川の流れを変えるように要求されてアーメドは困惑した)。住民が考えるのは多くの支援金を得ることだけで、世帯単位で食料を配給すると複数の家を登録する者が次々と現われた。
アーメドは、遊牧民である村人が自立するにはラクダの取引市場をつくるしかないと考えた。2007年夏に行なわれた取引所の開設式にはサックスも参加し、欧米のメディアでも紹介された。これがアーメドにとってもっとも成功した瞬間だったが、それは長くは続かなった。ダートゥは地域の中心から大きく外れており、遊牧民にとってはそこでラクダを売買することになんの魅力もなかったのだ。
一方、デイヴィッドの担当するウガンダのルヒーラは貧しい農民たちの村で、化学肥料や高収量の種子を無償配布することで収穫を大きく増やすことができた。これは大きな成果として喧伝されたが、デイヴィッドもやはり問題を抱えていた。
ひとつは水の確保だった。高地にあるルヒーラでは、ひとびとは水を得るためにはるか下の谷まで降りていかなくてはならず、その重労働で1日が終わってしまった。谷から農業用水を安定して汲み上げるには長大なパイプと強力なポンプ、じゅうぶんな燃料がなくてはならない。それは大事業であり、それ以外にも学校や病院などを建設しなくてはならないのだから、村の事業予算を大幅に超えてしまうのだ。
それでもサックスは、アメリカのパイプ・メーカーと交渉して無償で灌漑のための大量のパイプの提供と、設置に必要な技術者の派遣を同意させた。だが、このパイプをアメリカからウガンダまで船で輸送し、そこから僻地にあるルヒーラに運ぶ方法が問題になった。大型トラックもハイウェイもなく、どのような見積もりでも輸送コストがパイプそのものと同じくらいかかってしまうのだ。
さらなる難題は、ウガンダの既成のパイプがイギリス仕様なのに対し、提供されるパイプはアメリカ仕様だったことだ。両者を接続するには、いちいちコンバーターをつけなくてはならない。
このやっかいな事態に対してニューヨークの優秀なスタッフが編み出した解決策は、思いがけないものだった。そもそも、水を汲み上げるのにパイプやポンプが必要不可欠だと思うことが間違っているのだ。現地では伝統的に、悪路の物資の運搬にロバを使っている。だとしたら、なぜ水の運搬にロバを使ってはならないのか。
こうしてデイヴィッドのところには、大規模な灌漑施設の代わりに8頭のロバが届けられた。
もうひとつの問題は、このジョークのような話よりずっと深刻だった。トウモロコシの収穫が倍に増えたのはいいが、僻地でマーケットもないため、それを販売する方法がないのだ。その結果、近隣のトウモロコシ価格は暴落し、農民は売却をしぶって自宅や周辺の敷地に積み上げた。農産物を保管する倉庫がないので仕方がないのだが、ネズミが大発生して大半を処分するほかなくなった。
これを解決するには大規模な保管倉庫をつくるだけでなく、収穫物を都市に運ぶ道路・トラックなどの交通インフラや農産物の取引市場が必要だった。いずれもデイヴィッドに与えられた予算と権限ではどうしようもないことだった。
“貧困ポルノ”の終焉
ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに選ばれた村ではマラリアの感染率が下がり、出産で死亡する妊婦が減り、子どもたちの教育年数が増えるなど、かなりの成果を達成した。だが当初の5年間を経て、この成長が持続可能かどうかについては大いに疑問があった。プロジェクトの批判派からの辛らつな攻撃だけでなく、アーメドやデイヴィッドなど現地責任者から「資金の流入が止まれば村は崩壊する」との訴えが山のように届いていたからだ。
こうしてサックスは、当初の計画の修正を余儀なくされた。2011年までの5年間はプロジェクトの「第1フェーズ」で、そこで経済発展に必要なインフラを構築し、2016年までの新たな5年間を「第2フェーズ」として、援助(贈与)ではなく融資(投資)によって野心的な起業家を養成しさまざまなビジネスを軌道に乗せるというのだ。
だがサックスの奮闘にもかかわらず、第2フェーズの資金集めは順調とはいえなかった。ニナ・ムンクは経験のあるジャーナリストではあるが、開発経済学はまったくの門外漢だった。そんな彼女ですら、プロジェクトは大きな問題を抱えており、そもそもサックスが最初から間違っていたのではないかと疑うようになった。現地とニューヨークの本部との関係は険悪になり、村のなかでも足の引っ張り合いが起こり、サックスの忠実な「信者」だったアーメドは2010年春に解雇されてしまう。「ミレニアム・ヴィレッジは大失敗だ」というのは、援助関係者のあいだでは常識になりつつあった。
だが私たちは、このプロジェクトの結末を知ることができない。
2011年夏にアフリカは記録的な干ばつに襲われた。ソマリアの遊牧地は干からび、ラクダは死に絶え、難民たちが国境を越えてケニア側に押し寄せた。難民にはイスラーム原理主義の過激派も混じっており、彼らは白人の援助関係者を殺し、あるいは誘拐して身代金を要求した。ケニアのソマリ地区からは白人はすべて退去し、ムンクもダートゥを二度と訪れることができなくなった。
同じく、干ばつのためウガンダの政情も混乱をきわめた。首都カンパラにあるミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトの支部は略奪にあい、デイヴィッドもルヒーラを放棄せざるを得なくなった。
このようにして、アフリカの「ビッグプッシュ」に投じられた1億2000万ドルの大半(すくなくともダートゥに投資された400~500万ドルの資金のすべて)は失われてしまった。サックスは、「村は次々と災難に見舞われた。ヨブ記のように」と他人事のように評論するだけで、プロジェクト自体は成功しつつあったと強弁しているが、ミレニアム・ヴィレッジと同程度の経済成長は、経済のグローバル化によってアフリカの他の地域でも達成されている。
サックスが強烈なエゴによって援助関係者からの批判を粉砕し、強引にプロジェクトを進めたとしても、貧困を撲滅するという彼の奮闘がすべて無意味だったということはできない。
マラリアを媒介する蚊を防ぐための虫よけネットは住友ケミカルが開発したもので、防虫剤を添付することで高い殺虫効果をもっていた。サックスは200万ドル分の虫よけネットを寄贈するよう住友ケミカルを説得したが、これに対して既存の援助関係者から「防虫ネットの市場をつくろうとしてきたこれまでの努力を台無しにする」との強い批判が起きた。
サックスは、「市場より大切なのはひとびとの生命だ。先進国ではワクチンを無償で接種できるが、これを止めてワクチン市場をつくれというのか」と反論した。かつては市場原理主義的なショック・セラピーの伝道者だったサックスは、こんどは市場原理を否定するようになったのだ。
中立的な経済学者のなかにも、この論争ではサックスに分があるとする者も多い。「防虫ネットの市場をつくる」という試みも、たいしてうまくいってないからだ。だったら、いますぐただで配ってどんな不利益があるというのか。
だがこうした数々の論争のなかで、サックスが常に「生命」を盾にとって論敵を非難してきたことは否定できない。ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトを批判する者は誰であれ、生命より市場(金儲け)を優先しようとしているのだ。
「死につつあるひとたちを放置するのか、そのためになにかしようとするのか、あなたの選択はふたつにひとつだ」とサックスは繰り返し力説した。だが2011年、干ばつでミレニアム・ヴィレッジが崩壊し、過激派組織や暴徒によって村人たちの生命が危機に瀕したとき、サックスはなにもしなかった。――この批判はきびしすぎるかもしれない。だがニナ・ムンクは、これまでのサックスの主張にのっとれば、このようにいうほかないと書く。天に吐いた唾は自分のところに落ちてくるのだ。
サックスは、「貧困を終わらせるのは簡単だ」との主張で時代の寵児になった。だがすべてが終わったあと、ムンクとの最後のロング・インタビューで、かつては「世界をよりよいものに変えられる」という確信を抱いていたことについて問われ、こう述懐している。
「この不確かな世界ですら、ひとは強い確信をもつことができる。ほんとうのところ、それができうる最善のすべてで、私にとっての“確信”とはそういうものだ」
「それ(ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト)が最善の最善(the best of the best)であったかどうかを問うことに意味があるとは思わない。それは、私がもっているもののなかで、私にできるベストだった」
世界金融危機ののち、サックスの関心はアフリカからアメリカの経済格差に移り、「ウォール街を占拠せよ」の集会で強欲を批判し、税制改革、銃規制、ワシントンの空洞化、ユーロ圏の崩壊から地球温暖化問題まで手当たり次第に演説し、寄稿し、tweetしている。それはまるで、新たに伝道できる「ネタ」を探しているかのようだ。2005年の絶頂期にはサックスを次期アメリカ大統領選の候補者にするという運動も盛り上がったが、その団体もとうに解散された。
雑誌『エコノミスト』誌は2012年3月、「貧困の終焉」にかけた「ライブエイドの終焉(The End of Live Aid)」という記事を掲載して一連の騒動を総括し、「サックス氏がU2のボーカリスト、ボノなどのセレブととともに繰り広げたロックコンサート風の“貧困ポルノ(poverty porn)”は幕を下ろした」と書いた。
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