ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトでロシアのウクライナ侵攻について書いたものを、全6回で再掲載しています。最終回は1998年に刊行され、今年「緊急復刊」された中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)の紹介です。(公開は2022年6月2日。一部改変)
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ロシアによるウクライナ侵攻から3カ月がたったが、いまだに戦争終結のシナリオは描けない。プーチンは当初、数日で首都キーウを占領し、ゼレンスキー大統領を逮捕したうえで傀儡政権を樹立できると考えていたとされる。これが戦略的な大失態であることが明らかになって、いまは東部のドンバス地方に兵力を集め、支配地域の拡大を狙っているようだ。
もちろん、ウクライナが国土の割譲を受け入れるはずもなく、停戦の条件は少なくとも2月24日時点の境界線まで戻すことだろう。だがこれでは、プーチンにとって、これだけの犠牲を払ってなにも得られないことになり、権力の維持が困難になるのではないか。
ロシアへの経済制裁にともなう石油・ガスなどのエネルギー資源の高騰や、世界的な穀物不足により、中東・アフリカなど脆弱な国々の政治・社会が不安定化している。ドイツやフランスは早期に落としどころを見つけたいようだが、この状況を収拾する道はまだ見えない。
両国の関係はなぜこんなにこじれてしまったのだろうか。
ウクライナ問題はロシアのアイデンティティ問題
中井和夫氏はウクライナを含む旧ソ連圏の民族史・現代史の専門家で、1998年に刊行された『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)が今回のウクライナ侵攻を受けて「緊急復刊」された。
本書は、1991年のソ連崩壊からウクライナの独立、ロシア・ベラルーシ・ロシアによるCIS(独立国家共同体)結成に至る時期に書かれたものを中心に、不安定なこの地域が今後、どうなるのかを論じている。
一読して思ったのは「ウクライナ問題とはロシアのアイデンティティ問題」であることと、現在の紛争は30年ちかく前にすでに予想されていたことだ。私は「構造的な問題はいずれ現実化する」と考えているが、これはその不幸な事例ともいえる。
本書の「おわりに」で中井氏は、「旧ソ連圏が抱えている民族問題で最も深刻なのは、ロシア連邦の外に住むロシア人の問題である」として、ウクライナには1200万人の「残留ロシア人」がいることを指摘している。そのうえでこう書いているが、現在のウクライナ侵攻を評したものだとしてもなんの不思議もない。
ロシア人の多くがソ連解体後、ロシアが不当に小さくされてしまった、大国としてのプライドが傷つけられた、と感じはじめている、彼らのナショナリズムは傷つけられたのである。「傷ついたナショナリズム」は、失われたものを、民族の誇りを取り戻そうとする。「帝国復活」を叫ぶ排外主義的保守派が選挙で躍進するのにはこのような理由があり、基盤があるのである。
ロシア・ナショナリズムが強まり、帝国の復活が主張されると、すぐに問題にならざるを得ないのがロシア以外の地に「差別」を受けながら暮らしているロシア人の問題である。不当に苦しめられている在外同胞を救出せよという声がロシア・ナショナリストからあがるのは当然ともいえよう。そしてこの在外同胞救援は「イレデンティズム(本来ロシアの領土であるべき外国の領地を回収しようとする運動)」にすぐに転化する可能性が高いので、ロシア人の多く住んでいる近隣諸国との国境紛争になる可能性が充分にある。
ソルジェニーツィンが夢見た「聖なるロシア」の復活
1990年秋、在米ロシア人作家ソルジェニーツィンがソ連の2つの新聞(合計2650万部)に『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を発表して大きな議論を巻き起こした。
1918年生まれのソルジェニーツィンは、スターリンを批判したとして1945年に逮捕され、強制収容所で8年の刑期を終えたあとカザフスタンに永久流刑された。フルシチョフの「雪解け」後に発表した『イワン・デニーソヴィチの一日』が国内でベストセラーになったものの、ブレジネフの時代になるとふたたび迫害され、1970年のノーベル文学賞受賞のあと、74年に国外追放された。ソ連体制下の強制収容所(グラーグ)の実態を告発した大作『収容所群島』はこの時期に書き継がれた。
ドイツ、スイスを経てアメリカに移り住んだソルジェニーツィンは、やがて西側の物質主義を批判するようになり、正教による「聖なるロシアの復活」というヴィジョンを語りはじめた。
ソルジェニーツィンの「提言」を中井氏は、「ソ連という国に未来はなく、ソ連を解体することでロシアを救わなければならない」として「帝国維持派」を批判、「ロシア建設派」を支持したものだと述べる。「植民地を失った日本が戦後発展したように、また帝政ロシア時代の領土であるポーランドとフィンランドを失ってロシアが以前より強国となったようにロシアは今非ロシアの11の民族共和国を彼らが欲しようと欲しまいとロシアから切り離さなければならない」とこの老作家は述べた。
ソルジェニーツィンの構想する「新しいロシア」の建設にとって鍵となるのは「スラヴの兄弟」たち、すなわちウクライナとベラルーシだった。「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの全員が、キエフ・ルーシという共通の出自をもっており、キエフ・ルーシの民族がそのままモスクワ公国を創ったのだ」とするソルジェニーツィンは、「血のつながっているウクライナを切り離そうとするのは不当な要求であり、残酷な仕業である」とウクライナの兄弟たちに「同胞」として呼びかけた。ロシアとウクライナとベラルーシのスラヴ三民族で「汎ロシア連邦」を形成すべきだとしたのだ。
それに対してユーラシア主義は、「ロシアがヨーロッパとアジアからなっており、スラヴ系諸民族とトルコ系諸民族、キリスト教徒とイスラム教徒から構成されている」とする。このロシア二元論では、ロシア帝国はかつてのモンゴル帝国の再現であり、ソ連時代の公式見解では、1917年2月のボリシェヴィキ革命によって解体に瀕していたロシア帝国がふたたびユーラシアの帝国として統合されたことになっていた。
ソ連が解体の危機に瀕していた1990年前後には、大ロシア主義と小ロシア主義が対立した。小ロシア主義者は、「ロシアは周辺の諸共和国に恩恵を施しすぎている、ロシアがロシアのためにその人的・物的資源を活用すればロシアはもっと豊かな国となる。ロシアは「帝国」から普通の「ロシア」に回帰すべきである」と主張した。だがこの現実主義は、93年にはロシアの歴史的使命を唱える「大ロシア主義」へと転換していた。「ロシアは本来大国であり、小さくなりすぎた。大国としての威信を傷つけられた」と感じるナショナリズムが、帝国再建の願望や独立した周辺諸国に対する「侮蔑と怒りの感情」とともに復活したのだ。
その意味でソルジェニーツィンの提言は、汎ロシア連邦からユーラシア主義につながるその後のロシアを予見したものといえるだろう。だがここで中井氏は、ユーラシア主義が成り立つためには「ロシア人もタタール人などアジア系民族もともに「ユーラシア人」としてのアイデンティを受け入れる必要がある」と述べ、それが虚構(空理空論)であることを指摘している。
ロシアの外側に取り残されたロシア人
ソ連は100以上の民族からなる多民族国家だったが、民族間には明らかなヒエラルキー(序列)があった。ロシアを筆頭にウクライナなど15の民族共和国があり、1977年憲法ではその下に20の自治共和国、8の自治州、10の自治管区がつくられたが、これらを合計しても53にしかならず、半数の民族にはそもそも自治権が認められていなかった。
ロシア人はソ連では経済的な特権階層ではなかったが、ソ連邦を支え維持していくという「帝国意識」をもった「主導民族」とされた。ロシア共和国のいちばんの特徴は、ソ連時代に「ロシア共産党」がなかったことだ。同様に、民族共和国や自治共和国ごとに設立された内務省や国家安全保安委員会(KGB)も存在しなかった。「ロシア」と「ソ連」は一体化していたのだ。
そのことがよくわかるのが、ロシア人の周辺諸地域への大量移住だ。たとえばエストニアでは、1945年に2万3000人だったロシア人が89年には47万5000人になっている。この移住政策には、「民族・文化的に入り交じったロシア語を話す超民族的「ソヴェト人」の形成を促す目的があった」とされる。だがその結果は大きな社会的混乱で、エストアでも隣国ラトヴィアでも、この時期に移住してきたロシア人に国籍を付与せず、膨大な無国籍者を生み出したことが政治・社会問題になっている。
中井氏によれば、「ロシアのソ連への拡大」は1970年代半ばには逆転し、中央アジアではロシア系住民のロシアへの帰還が顕著になった。「ロシア人の「帝国意志」がしだいに失われるのに伴い、ロシア人の「辺境」進出も終わり、ロシア人は広義の「ソ連」から「ロシア」へ帰還しはじめた」のだ。
こうした人口動態の変化と、民族共和国や自治共和国における民族意識の高まりのなかで、その地域に暮らすロシア人たちは、自分たちが「外国人(Foreigners)」であることを意識させられるようになった。これが「残留ロシア人」で、ウクライナ東部のドンバス地方はその典型だ。ソ連崩壊はロシア人をソ連から「解放」したが、その代償として、ロシアの外に住むロシア人を「外国人」にしたのだ。
ドンバスにはドネツクとルハンスクの2つの州があるが、1990年時点で、ドネツクの44%、ルハンスクの45%がロシア人で、それに加えてドンバスのウクライナ人の34%がロシア語を母語だと答えた。この地域ではウクライナ独立を目指す民族運動は強い支持を得ていたわけではなく、かえってウクライナの「連邦化」を目指す動きが活発化した。これらの組織はドンバスの自治、独自の民警組織、ロシア語をドンバスの国家語とすることなどを要求した。
その背景には、独立後のウクライナにおけるウクライナ語公用化への反発がある。ソ連時代はロシア語が行政機関などで使われる第一言語とされていたのだが、それが「公務員はウクライナ語とロシア語の両方ができなければならない」とされ、一定期間内にウクライナ語とロシア語の両言語の習熟に失敗すると解雇されることになった。とはいえ、行政機関にいるウクライナ人は誰もがロシア語を話せたから、この政策がロシア語しかできないロシア人の排除を目的とするものなのは明らかだった。
ドンバスに住むロシア人はこれを「強制的なウクライナ化」であり、自分たちの(ロシア人としての)アイデンティティを否定するものだと反発し、ロシア語とウクライナ語に同じ地位を付与する「ニ言語政策」を要求した。94年にはドンバスでロシア語を公用語とすることに賛成か反対かを問う住民投票が行なわれ、90%以上の圧倒的賛成で「二言語政策」が支持されたが、当時のクチマ大統領はこの住民投票を無効として拒否した。
スターリンの民族浄化
ドンバスよりさらにやっかいなのは、2014年にロシアが一方的に占拠・実効支配したクリミアだ。そもそも、黒海に突き出たこの半島はどこに帰属するのだろうか。
クリミアは古来、黒海貿易の要衝で、紀元前からギリシア人が多くの植民都市を建設した。セバストポリ郊外のヘルネソス遺跡はその代表的なものだ。
キーウ・ルーシが衰退すると、クリミア半島はステップ地帯の遊牧民が支配し、モンゴルによるキプチャク汗国が衰えたあとはクリミア・タタールの建てたクリミア汗国の祖地となった。「タタール」はモンゴル系やテュルク系などさまざまな遊牧民の総称だ。
クリミア・タタールの支配は14世紀から18世紀末まで長期にわたるが、それとは別に、14世紀にクルミア半島北部のステップ地帯にコサック集団が成立した。コサックは「群れを離れた者」を意味するトルコ系の言葉で、最初のコサックは、本来所属しているクリミア汗国から離れてステップ地帯で自由に活動するようになったトルコ系クリミア・タタールの集団だった。
このステップ地帯に15世紀末、主に逃亡奴隷からなるスラヴ人コサックが南下してきて、16世紀末にはドニエプル川中流のザポロージェを中心に強大なコサック共和国を築いた。17世紀半ばにモスクワの支配に服し、コサック自治共和国として100年ほど維持されたものの、1776年、エカチェリーナ二世によって自治は廃され、ザポロージェの本営も破壊された。10年後、クリミア汗国もロシア帝国に併合され、ロシア帝国は黒海艦隊を有することになった。
この歴史からわかるように、クリミアはもともとタタール人の国で、その北部にスラヴ系のコサックの国があった。ロシア革命後の1920年代にはクリミア・タタール人を中心としたクリミア自治共和国が形成されたが、独ソ戦の末期、クリミア・タタール人が「対独協力」の罪で中央アジアに流刑に処され、自治共和国は消滅しロシア共和国のひとつの州にされた。
1793年の人口調査ではクリミアのタタール人は83%を占めたが、1939年(強制移住前)はロシア人が半分、タタール人が19.4%、ウクライナ人が13.7%となっている。ところが1959年の調査では、クリミア・タタール人は民族名の項目にすらあげられていない。
1944年5月17日の深夜から翌8日の未明にかけて、クリミア半島に住むタタール人はソ連秘密警察部隊によって村の広場や駅に着の身着のままで集められ、家畜運搬用の列車あるいは無蓋貨物列車に乗せられ、行先も告げられないまま強制移住させられた。25万人のひとびとが一夜にして消えてしまうというエスニック・クレンジング(民族浄化)だった。
ちなみに北コーカサスでも、1944年1月23日、スターリンによる強制移住が行なわれ、30万人以上のチェチェン人と9万3000人のイングーシ人が中央アジアに1日で強制移住させられた。のちのフルシチョフの証言によれば、スターリンはウクライナ全土からウクライナ人を移送することも考えたが、数千万の規模の強制移住は非現実的で、断念したという。
クリミア・タタール人のなかに、ドイツ占領下でドイツ軍に協力した者がいたことは確かだが、大部分は赤軍の側に立ってドイツ軍と戦った。だが戦後、共産党はドイツ軍に対抗したパルチザン地下抵抗運動の記録を隠蔽し、クリミア・タタール人全体が祖国を裏切ったという印象をつくりだした。ヒトラーの「東方部隊」に加わったクリミア・タタール人はおよそ2万人と考えられているが、そのほとんどは戦死するか、ドイツの収容所で死亡するかしたため、強制移住された25万のなかに実際に対独協力した者はほとんど含まれていなかったという。
ロシア共和国に編入されたクリミアは、1954年にフルシチョフによってウクラナ共和国に移管された。その背景には諸説あるが、当時、フルシチョフとベリヤのあいだでスターリン死後の権力争いが行なわれており、有力な地方支部であるウクライナ共産党の支持を取り付けようとしたからではないかと中井氏はいう。もちろんこのとき、将来、ウクライナが独立するなどということはまったく想定されていなかった。
クリミア・タタール人は1967年に名誉回復されたものの、クリミア半島への帰還は許されなかった。90年以降、ようやく帰還が認められ、およそ25万人がクリミア半島に住み着いたが、これがロシア系やウクライナ系の住民とのあいだに強い軋轢を生じさせた。このときのクリミアの民族構成はロシア人が67.0%、ウクライナ人が25.8%で、ほとんどがロシア語を第一言語としていた。
このような歴史を顧みれば、クリミア半島の支配を正当化できる理由はロシアにもウクライナにもない。
「新東欧」の誕生と西欧によるロシアの「新封じ込め」
ソ連時代は、オーストリアとチェコスロバキアが「中欧」、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが「東欧」とされていた。だがソ連が解体すると、「東欧」の東にエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国と、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァという新しい国が誕生した。
中井氏はこれを「新東欧」と名づけ、「旧東欧」は中欧に含まれることになったという。「概念としての東欧は東に移動した」のだ。
「(今後)旧東欧地域が明確にNATO、EU加盟をめざすことになれば、ロシアとしてはさらなるNATO、EUの東への拡大を阻止するために「新東欧」をバッファ(緩衝地帯)としてロシアの勢力圏に確実に組み込むことが政策の優先順位になる」と20年以上前に中井氏は書いたが、その後の経過はこの予想を正確になぞることになった。
NATOには、1999年にチェコ、ハンガリー、ポーランド、2004年にエストニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、スロベニアが加入、EUには2004年にチェコ、スロバキア、エストニア、ラトビア、リトアニア、スロベニア、07年にブルガリアとルーマニアが加盟した。こうして、西欧による対ロシアの「新封じ込め」が完成した。
この動向をロシアは、「冷戦終結で旧ソ連の軍事ブロックは解消したのに、NATOは肥大化して“前進”を進め、ロシアを孤立化させようとしているのではないか」と警戒した。95年にブルガリアを訪問したロシア首相チェルノムイジンは、「NATOの急速な拡大は欧州を2つの陣営に分裂させ、新たな冷戦を引き起こす危険がある」と述べている。
旧東欧とバルト三国がEUとNATOのメンバーになった以上、ロシアにとって安全保障上、死活的に重要なのは、これ以上の「西欧の東進」を阻止し、ベラルーシとウクライナの「新東欧」を自らの勢力圏にとどめておくことだった。
そのウクライナでは、独立以降、スターリン治下のホモドロール(大飢饉)など歴史の見直しが進められた。
東方正教会(ユニエイト)は16世紀後半、ガリツィア(ウクライナ西部で、当時はハプスブルク帝国のポーランド領)で生まれたウクライナ人の宗教だ。カトリック(イエズス会)の活発な布教活動に対抗するため、正教の典礼を用いつつカトリックの教義とローマ教皇の首位権を受け入れる「折衷」宗派がつくられたのだ。ソ連統治下では東方正教会はロシア正教に「合流」させられ、教会財産も移管された。独立後はこれが問題となり、ユニエイト教会の名誉回復、完全な合法化、教会財産の返還、ロシア正教会の謝罪などが要求されるようになった。
それに対してウクライナにおけるロシア正教の代表は、「ウクライナ・カトリック教会の再建を叫んでいる者はごくわずかな狂信者で、その数は数千人にすぎない。彼らは外国勢力と手を結ぶファシストたちである」と反論している(それに対してユニエイトたちは、教会再建を要求する署名を1カ月のあいだに10万通集めて対抗した)。これはペレストロイカ下の1989年のことだが、当時からウクライナの「反ロシア」運動が“ファシスト”と呼ばれていたことがわかる。
5月8日の大祖国戦争(第二次世界大戦)戦勝記念日の演説で、プーチンは「昨年(2021年)12月、われわれは安全保障条約の締結を提案した。ロシアは西側諸国に対し、誠実な対話を行ない、賢明な妥協策を模索し、互いの国益を考慮するよう促した。しかし、すべては無駄だった。NATO加盟国は、われわれの話を聞く耳を持たなかった」「NATO加盟国は、わが国に隣接する地域の積極的な軍事開発を始めた。(略)アメリカとその取り巻きの息がかかったネオナチ、バンデラ主義者との衝突は避けられないと、あらゆることが示唆していた。繰り返すが、軍事インフラが配備され、何百人もの外国人顧問が動き始め、NATO加盟国から最新鋭の兵器が定期的に届けられる様子を、われわれは目の当たりにしていた」などと述べて、ウクライナへの侵攻を正当化した。
四半世紀前に刊行されたこの本を読むと、ソ連崩壊以降、すべてが予定調和のように進んでいったように思えるのだ。
第1回 ロシアは巨大なカルト国家なのか?
第2回 陰謀論とフェイクニュースにまみれた国
第3回 「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた
第4回 「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路
第5回 ロシアはファシズムではなく「反リベラリズム」
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