7月15日執筆のコラムです。その後、元首相襲撃犯についてより詳しいことが明らかになりましたが、記録のためそのまま掲載します。
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安倍元首相が奈良市内で選挙演説中に銃撃され、死亡するという衝撃的な事件が起きました。実行犯は41歳の男で、母親が新興宗教の信者になり、多額の献金で家庭が崩壊したことを恨んでいたとされ、この団体が主催した集会に元首相が寄せたビデオメッセージを見たことで、「日本で(この宗教を)広めたと思っていた」「絶対に殺さなければいけないと確信した」などと供述しているようです。
元首相はこの宗教団体の幹部どころか信者ですらないのですから、これは理不尽以外のなにものでもありません。しかし男には、自分が「被害者/善」であり、元首相が「加害者/悪」だという絶対的な確信があったはずです。そうでなければ、犯行を周到に計画し、迷いなく背後から銃弾を浴びせるようなことができるわけがありません。
事件の直後からネット上では、「元首相をSNSなどで“悪者扱い”し、誹謗中傷を繰り返していた者にも責任がある」との意見と、「批判と中傷はちがう」との反論がはげしく対立しました。これは、SNSが大きな影響をもつようになった時代の重要な論点です。
カルト宗教への個人的な恨みと、元首相の暗殺のあいだには巨大な飛躍があります。実行犯が元首相を「悪魔化」していった経緯の解明は今後の捜査・裁判を待たなければならないでしょうが、男が日常的にネットを使っていたらしいことから、「SNSに影響された」との見立てには一定の説得力があります。
それに対して「批判と中傷はちがう」ですが、両者を明確に分ける基準は存在しません。多くの批判には中傷の要素が含まれているだろうし、中傷のなかには事実に基づいたものも多いはずです。
皇族の結婚をめぐる騒動では、ネットニュースに膨大なコメントを投稿したひとたちは、「皇室のため」「日本のため」「本人のため」の正当な批判だと思っていたでしょう。しかし当事者は、そこに底知れない悪意を感じ「複雑性PTSD」に苦しむことになりました。
リベラルな社会では、パワハラやセクハラなどで「本人が傷ついたと感じれば“加害行為”」との基準が定着しつつあります。いまや「そんなつもりではなかった(中傷ではなく批判だ)」という反論は許されなくなりつつあります。
とはいえここには、元首相自身が「愛国者/善」「反日/悪」という二元論を巧みに使って、ポピュリズム的な手法で高い支持を得ていたという背景があります。それがネット世論を分断し、自らの「悪魔化」を招き寄せた側面はあったでしょう。もっとも元首相が、自身の「愛国心」を不当に中傷されていると感じていたこともじゅうぶん考えられますが。
さらにいえば、「元首相を“悪者扱い”していた者にも責任がある」という批判自体が、元首相を批判していたひとたちにとっては中傷以外のなにものでもないでしょう。
このように、善悪二元論にもとづく論争は必然的に「無間地獄」に堕ちていきます。まともなひとはこんな面倒なことには近づかないでしょうから、タコツボのなかで対立が過激化し、収拾がつかなくなっていくというのもSNSでよく見られる光景です。
『週刊プレイボーイ』2022年7月25日発売号 禁・無断転載