遺伝人類学が解き明かす「人類誕生」と「人種」の謎

人類学者の篠田謙一さんと対談させていただいたので、関連記事として、デイヴィッド・ライク『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(日向 やよい 訳、NHK出版)の紹介をアップします。一緒にお読みいただければ。

原題は“Who We Are and How We Got Here: Ancient DNA and the new science of the human past(我々は何者で、どのようにしてここに至ったのか 人類の過去を探る古代DNAと新しい科学)”(「海外投資の歩き方」のサイトでの公開は2018年10月19日。一部改変)。

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30億ドル(約3300億円)の予算をかけたヒトゲノム計画が完了してわずか十数年で、全ゲノム解析のテクノロジーは驚くべき進歩をとげ、いまでは誰でもわずか数万円で自分のDNAを調べられるようになった。

さらに近年、遺跡などから発掘された遺骨からDNAを解析する技術が急速に進歩し、歴史時代はもちろん、サピエンスが他の人類と分岐する以前の古代人の骨の欠片からDNAを読み取ることもできるようになった。この「古代DNA革命」によって、従来の遺跡調査からはわからなかった人類の移動や交雑の様子が明らかになり、古代史・歴史の常識が次々と覆されている。

デイヴィッド・ライクは、サピエンスとネアンデルタール人の交雑を証明したマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボと並んで、この「古代DNA革命」を牽引する遺伝人類学者だ。一般向けに書かれた『交雑する人類』では、この魅力的な新分野の成果があますところなく紹介されている。

詳細は本を読んでいただくとして、ここではそのなかから興味深い知見をいくつか紹介したい。とはいえ、その前に用語について若干断っておく必要がある。

日常的に「人類」と「ヒト」を区別することはないが、人類学では両者は異なる意味で使われる。「ヒト」は現生人類(ホモ・サピエンス)のことで、「人類」はヒト族のみならず化石人類(アウストラロピクテス属など)を含むより広義の分類だ(専門用語ではホモ属=ホミニンhomininという)。ここでは、ユヴァル・ノア・ハラリに倣って現生人類を「サピエンス」とし、ネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅した古代人を含むホモ属やその祖先を「人類」とする。

本書でいう「交雑」とは、人類のなかの異なる集団(サピエンスとネアンデルタール人)や、サピエンスのなかの異なる集団(アフリカ系とヨーロッパ系)のDNAが混じりあうことだ。これは一般に「混血」とされるが、血が混じり合うわけではないから、科学的には明らかに誤っている。そのため「交配」が使われたりしたが、これはもともと品種改良のことで優生学的な含みがあるため、消去法で「交雑」に落ち着いたのだろう。

そうはいっても、「交雑」には「純血種をかけあわせたら雑種になる」というニュアンスがあり、「彼らは混血だ」というのと、「彼らは交雑だ」というのではどちらがPC(政治的に正しい)かというやっかいな問題は避けられないだろう。しかし私に代案があるわけでもなく、将来、よりPCな用語が定着するまで、本稿でもサピエンス内の集団の性的交わりを含め「交雑」とする。

これまで何度か書いたが、「原住民」と「先住民」では漢語として明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、現在も生活している集団」で、「先住民」は「かつて住んでいて、現在は絶滅している集団」のことだ。日本では「原住民」が一部で差別語と見なされているが、ここでは漢語本来に意味にのっとり、「アメリカ原住民」「オセアニア原住民」として「(絶滅した)先住民」と区別する。

これまでの常識が覆されていく

進化の歴史のなかでは、ホモ・サピエンス(現生人類)にはさまざまな祖先や同類がいた。ラミダス猿人やホモ・ハビルス、北京原人やネアンデルタール人などの化石人類を含めた人類(ホモ族)は、700万~600万年前にアフリカのどこかでチンパンジーやボノボとの共通祖先から分かれた。

これについては大きな異論はない(あまりに遠い過去で証明のしようがない)が、その後の人類の歴史については、多地域進化説と単一起源説(アフリカ起源説)が対立した。

多地域進化説では、180万年ほど前にユーラシアに拡散したホモ・エレクトス(原人)が各地で進化し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの異なる地域で並行的にサピエンスに進化したとする。それに対して単一起源説では、サピエンスの祖先はアフリカで誕生し、その後、ユーラシア大陸に広がっていった。

1980年代後半、遺伝学者が多様な民族のミトコンドリアDNAを解析して母系を辿り、すべてのサンプルがアフリカにいた1人の女性から分岐していることを明らかにした。これがミトコンドリア・イブで、約16万年(±4万年)に生存したとされる。この発見によって単一起源説に軍配が上がったのだが、これはサピエンスが10~20万年前のアフリカで誕生したということではない。

ライクによれば、この誤解はミトコンドリアのDNAしか解析できなかった技術的な制約によるもので、全ゲノム解析によると、ネアンデルタール人の系統とサピエンスの系統が分岐したのは約77万~55万年前へと大きく遡る。サピエンスの起源は、従来の説より50万年も古くなったのだ。

そうなると、(最長)77万年前からミトコンドリア・イブがいた16万年前までの約60万年が空白になる。これまでの通説では、その間もサピエンスはずっとアフリカで暮らしていたということになるだろう。

ところがその後、サピエンスの解剖学的特徴をもつ最古の化石が発見され、その年代が約33万~30万年前とされたことで、従来のアフリカ起源説は大きく動揺することになる。現時点で“最古のサピエンス”はジェベル・イルード遺跡で見つかったのだが、その場所は北アフリカのモロッコだったのだ(正確には石器や頭蓋の破片が発見されたのは1960年代で、近年の再鑑定で約30万年前のものと評価された)。

アフリカ起源説では、サピエンスはサハラ以南のアフリカのサバンナで誕生し、6~5万年前に東アフリカの大地溝帯から紅海を渡って「出アフリカ」を果たしたとされていた。だが30万年前に北アフリカにサピエンスが暮らしていたとなると、この通説は覆されてしまうのだ。

ホモ・サピエンスはユーラシアで誕生した?

遺伝学的には、サピエンスは「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」の大きく2つの系統に分かれる。ユーラシア系統は6~5万年前にアフリカを出て世界じゅうに広がっていき、アフリカ系統はそのまま元の大陸に残った。

この2つの系統は、ネアンデルタール人のDNAを保有しているかどうかで明確に分かれる。ネアンデルタール人はユーラシアにしかいなかったため、サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカで暮らすサピエンスとは交雑せず、そのためアフリカ系統の現代人にネアンデルタール人のDNAの痕跡はない。

従来の説では、ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多く発見されたため、出アフリカ後に北に向かったサピエンスが交雑したとされていた。だが現代人のDNAを解析すると、非アフリカ系(ユーラシア系)はゲノムの1.5~2.1%ほどがネアンデルタール人に由来するが、東アジア系(私たち)の割合はヨーロッパ系より若干高いことが明らかになった。

その後も、単純な「出アフリカ説」では説明の難しい人類学上の重要な発見が相次いだ。

2008年、ロシア・アルタイ地方のデ二ソワ地方の洞窟で、約4万1000年前に住んでいたとされるヒト族の骨の断片が見つかった。サピエンスともネアンデルタール人とも異なるこの人類は「デニソワ人」と名づけられたが、DNA解析でニューギニアやメラネシアでデニソワ人との交雑が行なわれたいたことがわかった。――ライクは、これをシベリア(北方)のデニソワ人とは別系統としてアウストラロ(南方)デニソワ人と呼んでいる。

さらに、アフリカ系と非アフリカ系のDNAを比較すると、ネアンデルタール人、デニソワ人とは別系統のDNAをもつ集団がいたと考えないと整合性がとれないこともわかった。

ライクはこの幻の古代人を「超旧人類」と名づけ、サピエンス、ネアンデルタール人、デ二ソワ人の共通祖先(約77万~55万年前)よりもさらに古い140万~90万年前に分岐したと推定した。超旧人類はデニソワ人と交雑し、その後、絶滅したと考えられる。

6~5万年前にサピエンスが「出アフリカ」を遂げたとき、ユーラシアにはすくなくともネアンデルタール人とデニソワ人(アウストラロ・デニソワ人)という人類がおり、サピエンスは彼らと各地で遭遇した。交雑というのは性交によって子どもをつくることで、動物の交配(品種改良)を見ればわかるように、きわめて近い血統でなければこうしたことは起こらない。

分類学では、子をつくらなくなった時点で別の「種」になったとみなす。ということは、サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人は(あるいは超旧人類も)「同種」ということだ。ネアンデルタール人とデニソワ人は同じユーラシアに住み、47万~38万年前に分岐したとされるから「同種」なのもわかるが、それより前の77万~55万年前に分岐し、地理的に隔絶したアフリカ大陸で(最長)70万年も独自の進化をとげてきたはずのサピエンスがとつぜんユーラシアに現われ、彼らと交雑できるのだろうか。

ここでライクは、きわめて大胆な説を唱える。サピエンスもユーラシアで誕生したというのだ。

「ミュータント・サピエンス」説

従来の人類学では、人類はアフリカで誕生し、200~180万年前にホモ・エレクトス(原人)がユーラシア大陸に進出した後も、ネアンデルタール人の祖先やサピエンスなど、さまざまな人類がアフリカで誕生しては繰り返し「出アフリカ」したことになっている。だがなぜ、新しい人類はアフリカでしか生まれないのか? ユーラシア大陸にも200万年前から多くの人類が暮らしていたのだから、そこで進化したと考えることもできるのではないか。

ライクは古代人のDNA解析にもとづいて、ユーラシアに進出したホモ・エレクトスから超旧人類が分岐し、さらにサピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐していったのではないかと考える。デニソワ人は東ユーラシアから南ユーラシアに広がり、ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西ユーラシアに分布した。だとしたら、サピエンスはどこにいたのか。

ライクの説によると、サピエンスは脆弱な人類で、ネアンデルタール人に圧迫されて中東の一部に押し込められていた。その後、ネアンデルタール人がさらに中東まで進出したことで、約30万年前には北アフリカや東アフリカまで撤退せざるを得なくなった。これが、モロッコでサピエンスの痕跡が発見された理由だ。

ところが6~5万年前に、そのサピエンスが「出アフリカ」を敢行し、こんどはネアンデルタール人やデニソワ人などを「絶滅」させながらユーラシアじゅうに広がっていく。このときネアンデルタール人は中東におり、サピエンスと交雑した。このように考えると、アフリカ系にネアンデルタール人のDNAがなく、東アジア系がヨーロッパ系と同程度にネアンデルタール人と交雑していることが説明できる。ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多数見つかるのは、サピエンスと遭遇したのち、彼らがユーラシア大陸の西の端に追い詰められていったからだろう。

中東でネアンデルタール人と交雑したサピエンスの一部は東に向かい、北ユーラシアでデニソワ人と、南ユーラシアでアウストラロ・デニソワ人と遭遇して交雑した。その後、彼らはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ、海を越えてオーストラリア大陸へ、そして千島列島から北海道、本州へと渡り縄文人の先祖になった。

ところで、ネアンデルタール人に圧迫されて逃げまどっていた脆弱なサピエンスは、なぜ他の人類を絶滅させるまでになったか。これについては遺伝学者のライクはなにも述べていないが、ひとつの仮説として、アフリカに逃げ延びた30万年前から「出アフリカ」の5万年前までのあいだに、東アフリカの一部のサピエンスが高度なコミュニケーション能力を進化させたことが考えられる。こうして誕生した「ミュータント・サピエンス」が、マンモスなどの大型動物だけでなく、ネアンデルタール人やデニソワ人など他の人類を容赦なく狩り、男を皆殺しにし女を犯して交雑していったのかもしれない(ニコラス・ウェイド『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』沼尻 由起子訳、イーストプレス)。

馬と車輪を手にした征服民族ヤムナヤ

ライクは『交雑する人類』で、DNA分析からヨーロッパ、南アジア、東アジア、アメリカ原住民、オーストラリア原住民、アフリカなどでどのようにサピエンスが移動し、交雑していったのかを説明している。ここではそのなかで、ヨーロッパとインドについて紹介しよう。

1万年前、中東の肥沃な三日月地帯で農耕が始まると、新たなテクノロジーを手にしたひとびとは農耕可能な土地を求めて東西に移住していった。しかしなかには農耕に適さない森林地帯や草原地帯(ステップ)もあり、そこには依然として狩猟採集民がいた。農耕民と狩猟採集民は、時に交易し、時に殺し合いながら暮らしていた。そうした集団のなかには、今日、DNAにしか痕跡を残さない者もおり、ライクはそれを「ゴースト集団」と呼ぶ。

遺伝学的には、8000年前頃の西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という、いまでは珍しい組み合わせの風貌だったと推定されている。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは、肌の色は明るかったが髪は暗い色で茶色の目をしていた。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯でみつかった1万7000年前の古代北ユーラシア人(ゴースト集団)だ。

ヨーロッパの東には中央ヨーロッパから中国へと約8000キロにわたって延びる広大なステップ地帯があったが、5000年ほど前にそこで馬と車輪というイノベーションが起きた。この最初の遊牧民の文化を「ヤムナヤ」と呼ぶ。

馬と車輪で高速移動を可能にしたヤムナヤの遊牧民は、新たな土地を求めて移動を繰り返した。このうち西に向かった遊牧民が現在のヨーロッパ人の祖先だ。

ここでライクが強調するのは、遊牧民がヨーロッパの農耕民と交雑したわけではないということだ。DNA解析によれば、彼らは定住民とほぼかんぜんに置き換わってしまったのだ。

遊牧民が定住民の村を襲ったのだとすれば、男を殺して女を犯して交雑が起きるはずだ。その痕跡がないということは、遊牧民がやってきたときには定住民はいなかった、ということになる。そんなことがあるのだろうか。

ここでの大胆な仮説は病原菌だ。ペストはもとはステップ地帯の風土病とされているが、遊牧民が移住とともにこの病原菌を運んできたとしたら、免疫のない定住民はたちまち死に絶えてしまったはずだ。こうして交雑なしに集団が入れ替わったのではないだろうか。

15世紀にヨーロッパ人はアメリカ大陸を「発見」し、銃だけでなく病原菌によってアメリカ原住民は甚大な被害を受けた。興味深いことに、それとまったく同じことが5000年前のヨーロッパでも起き、「原ヨーロッパ人」は絶滅していたかもしれないのだ。

ナチスの唱えた「アーリア人種主義」は正しかった?

馬と車輪を手にしたステップの遊牧民のうち、ヨーロッパ系とは別の集団は南へと向かい、現在のイランや北インドに移住した。彼らはその後「アーリア」と呼ばれるようになる。

独立後のインドでは、「インド人とは何者か?」が大きな問題になってきた。

ひとつの有力な説は、ヴェーダ神話にあるように、北からやってきたアーリアがドラヴィダ系の原住民を征服したというもの。この歴史観によると、バラモンなどの高位カーストは侵略者の末裔で、低位カーストや不可触民は征服された原住民の子孫ということになる。

だがこれが事実だとすると、インドはアメリカの黒人問題と同様の深刻な人種問題を抱えることになり、国が分裂してしまう。そこでヒンドゥー原理主義者などは、アーリアももとからインドに住んでおり、神話にあるような集団同士の争いはあったかもしれないが、それは外部世界からの侵略ではないと主張するようになった。

現代インド人のDNA解析は、この論争に決着をつけた。

インド人のDNAを調べると、アーリアに由来する北インド系と、インド亜大陸の内部に隔離されていた南インド系にはっきり分かれ、バラモンなど高位カーストは北インド系で、低位カーストや不可触民は南インド系だ。インダス文明が滅び『リグ・ヴェーダ』が編纂された4000年~3000年前に大規模な交雑があり、Y染色体(父系)とミトコンドリア染色体(母系)の解析から、北インド系の少数の男が南インド系の多くの女と子をつくっていることもわかった。

近年のヒンドゥー原理主義は、カーストが現在のような差別的な制度になったのはイギリスの植民地政策(分断して統治せよ)の罪で、古代インドではカーストはゆるやかな職業共同体で極端な族内婚は行なわれていなかったとも主張している。この仮説もDNA解析で検証されたが、それによると、ヴァイシャ(商人/庶民)階級では、2000~3000年のあいだ族内婚を厳格に守って、自分たちのグループに他のグループの遺伝子を一切受け入れていないことが示された。ジャーティと呼ばれるカースト内の職業集団にもはっきりした遺伝的なちがいがあり、インドは多数の小さな集団で構成された「多人種国家」であることが明らかになった。

西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じステップ地方の遊牧民「ヤムナヤ」に起源をもつ同祖集団で、だからこそ同系統のインド=ヨーロッパ語を話す。これはナチスの唱えたアーリア人種主義(アーリアン学説)とよく似ている。

ライクは、バラモンによって何千年も保持されてきた宗教もヤムナヤ由来で、ヨーロッパ文化の基層にはヒンドゥー(インド)的なものがあることも示唆している。

遺伝人類学と人種問題

『交雑する人類』にはこれ以外にも興味深い仮説がたくさん出てくるのだが、それは本を読んでいただくとして、最後に人種問題との関係についてライクの見解を紹介しておきたい。

ここまでの説明でわかるように、DNA解析は歴史を再現するきわめて強力な手段だ。それがサピエンスとネアンデルタール人の交雑であれば科学的な興味で済むだろうが、現代人の異なる集団の交雑を検証する場合、北インド人と南インド人のケースでみたように、きわめてセンシティブな領域に踏み込むことになる。一歩まちがえば「人種主義(レイシズム)」として批判されかねないのだ。

ライクはリベラルな遺伝人類学者だが、耳触りのいい「きれいごと」でお茶を濁すのではなく、この重い問いに誠実にこたえようとする。

リベラル(左派)の知識人は、「人種は社会的な構築物だ」とか、「人種などというものはない」と好んでいいたがる。だが2002年、遺伝学者のグループがゲノム解析によって世界中の集団サンプルを分析し、それが一般的な人種カテゴリー、すなわち「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」と強い関係のあるクラスターにグループ分けできることを証明した。これはもちろん、「人種によってひとを区別(差別)できる」ということではないが、人種(遺伝人類学では「系統」という用語が使われる)のちがいに遺伝的な根拠があることをもはや否定することはできない。

このことは、もっとも論争の的となる人種と知能の問題でも同じだ。

ヨーロッパ人系統の40万人以上のゲノムをさまざまな病気との関連で調査した結果から、遺伝学者のグループが就学年数に関する情報だけを抽出した。その後、家庭の経済状況などのさまざまなちがいを調整したうえで、ゲノム解析によって、就学年数の少ない個人より多い個人の方に圧倒的によく見られる74の遺伝的変異が特定された。

これも遺伝によって頭のよさ(就学年数の長さ)が決まっているということではないが、「遺伝学には就学年数を予測する力があり、それはけっして些細なものではない」とライクはいう。予測値がもっとも高いほうから5%のひとが12年の教育機関を完了する見込みは96%なのに対して、もっとも低いほうから5%のひとは37%なのだ。

こうした(リベラル派にとって)不都合な研究結果を紹介したうえで、ライクは、「実質的な差異の可能性を否定する人々が、弁明の余地のない立場に自らを追い込んでいる」のではないかと危惧する。私なりに翻案すれば、「扉の陰にいるのは白いネコであるべきだし、白いネコに間違いないし、いっさい異論は許さない」と頑強に主張しているときに、黒いネコが出てきたらいったいどうなるのか、ということだ。「そうした立場は、科学の猛攻撃に遭えばひとたまりもないだろう」とライクはいう。

これは「古代DNA革命」の第一線の研究者として、新しいテクノロジーのとてつもないパワーを知り尽くしている者だけがいうことができるきわめて重い発言だ。門外漢の私はこれについて論評する立場にないので、最後にライクの警告を引用しておきたい。

「認知や行動の特性の大半については、まだ説得力のある研究ができるだけの試料数が得られていないが、研究のためのテクノロジーはある。好むと好まざるとにかかわらず、世界のどこかで、質のよい研究が実施される日が来るだろうし、いったん実施されれば、発見される遺伝学的なつながりを否定することはできないだろう。そうした研究が発表されたとき、わたしたちは正面から向き合い、責任を持って対処しなければならない。きっと驚くような結果も含まれているだろう」

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