2020年2月のこの欄で、「年金受給の70歳への繰り下げは有利だが75歳への繰り下げは意味がない」と書いた。この私見はずっと無視されていたのだが、田村正之編集委員が本紙「お金を殖やすツボ」(3月13日付)でこのことに触れてくれた。
それによれば、受給開始の年齢が上がるほど年金の繰り下げが不利になることを、厚労省は知っていた。それにもかかわらず、「60代後半は増額率を下げ、70代は高くするとややこしいので、いわば『えいや』で、どの年齢でも(増額率を年)0.7%にした」のだという。
厚労省の説明では、年金は受給開始年齢にかかわらず、全体の受給額が同じになるように設計されている。しかしこれは、ファイナンス理論の基本からして間違っている。
目の前のある1万円か、1年後にもらえる1万円か、どちらか選べといわれたら、よほどの変人でもないかぎり来年まで待とうとは思わないだろう。年金も同じで、後払いの選択にはそれに見合うメリットを提示しなければならない。
この利得は、銀行預金と同じく、年利に換算できる。簡易生命表を使ってそれを試算すると、65歳から70歳への繰り下げには年2.2%のプレミアムが与えられている。これは現在のゼロ金利に比べてかなりの大盤振る舞いだから、いますぐ年金を必要としないひとは繰り下げた方が得だ(お金を年利2.2%の元本保証で運用できる)。
ところが70歳から75歳への繰り下げを同様に計算すると、プレミアムは年0.7%に下がってしまう。これなら、さっさと受け取って自分で運用した方がいいと思うひとも多いだろう。
なぜこんなことになるかというと、(田村編集委員も指摘するように)平均余命は指数関数的に(複利で)短くなっていくのに対し、繰り下げは年0.7%の単利でしか増えないからだ。その結果、年齢が上がるほどプレミアムは低くなり、理論上は81歳でマイナスになる。
私はファイナンスの専門家ではないが、この程度のことはExcelでちょっと計算すればすぐにわかる。逆にいえば、なぜこれまで専門家が指摘しなかったのかが不思議だ。そこにはなにかの「陰謀」があるのだろうか。
年金をいつから受け取るかには、もうひとつ大事なポイントがある。ここまでの議論は、金利が変わらないことを前提にしていた。日本はデフレとゼロ金利がほぼ30年続いたが、戦争や円安、エネルギー政策の転換などさまざまな要因で物価が上がりはじめている。それにともなって、「金利のある世界」が戻ってくるかもしれない。
65歳から5年間の繰り下げは年利2.2%の預金と同じだが、市中金利がそれ以上なら不利になってしまう。ただし繰り下げた年金はいつでも受給申請できるし、プレミアムを放棄すれば、65歳以降にもらうはずだった全額を受け取ることもできる。
いまは想像もできないが、インフレ率も金利も高騰する世界になれば、いますぐ年金を受け取って銀行に預け直した方が合理的になるかもしれない。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.102『日経ヴェリタス』2022年4月16日号掲載
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