【3月3日執筆のコラムです。状況は刻々と変わっていますが、記録のためアップします】
1955年のアメリカ映画『理由なき反抗』には、ジェームズ・デーィン扮する17歳の主人公が、地元の不良とチキンレースを行なう有名なシーンがあります。盗んだ中古車を崖に向かってフルスピードで走らせ、先に運転席から飛び出した方が「チキン(臆病者)」の屈辱に甘んじるのです。
チキンレースは一般に、2台の車が相手に向かって直進し、最初にハンドル切って衝突を避けた方が負けとされます。この不良の遊びはゲーム理論で検討されていて、どちらか一方が譲歩(チキンになる)しないかぎり、衝突という最悪の結果が避けられないことが証明されています。
チキンレースで確実に勝つ方法はないのでしょうか。ここで経済学者が提案するのが、走行中に車のハンドルをもぎとり、相手に見えるように投げ捨てるという意表をついた作戦です。これによってあなたはもはやハンドルを切ることができないのですから、相手はチキンになる以外に死を避ける方法がありません。これは「狂人戦略」とも呼ばれ、なにをするかわからない相手には、合理的な人間は屈服するしかないのです。
国際政治学者や軍事専門家の多くが、ロシアのウクライナ侵攻を予想できなかったと批判されています。しかしこれは、専門家が愚かというよりも、この作戦になんの合理性も見いだせなかったからでしょう。
「いくらなんでも、そんなバカなことはしないだろう」という楽観論は、欧米の専門家だけではありませんでした。
モスクワに拠点のあるヘッジファンドは、2月半ばの取材に対して「戦争にはならないと確信している」と言い切り、政府系銀行ズベルバンクなどロシアの大手企業の株を大量に買っていました。そのズベルバンクは、経済制裁で欧米拠点から大量の預金が流出、撤退を余儀なくされました。軍事作戦が始まったあとも、プーチン支持のロシアの政治学者までが、ウクライナ東部の親ロ派地域の確保が目的で、「キエフの占領などはなく、戦闘は数日で終わるだろう」と述べていました。
しかし現実には、(ほとんど)誰も予想していなかった全面侵略が行なわれ、しかも戦況が膠着してウクライナ市民の犠牲が増え、事態をどう収拾するのかわからないまま混乱が広がっています(3月3日現在)。欧米が主導する経済制裁も市場の予想を大幅に上回るきびしさで、ロシアは国際決済網から排除されただけでなく、中央銀行が保有するドル資産が凍結されたことで、外貨準備を使って通貨を買い支えられなくなくなりました。これによってルーブルは急落、金利は高騰し、ロシア市民の生活にも大きな影響が出ています。
ロシア軍が首都キエフを占領しても、ウクライナ政権はポーランドとの国境に近いリヴィウなどに移ることで徹底抗戦を続けるでしょう。傀儡政権を樹立できたとしても、それを安定して維持するのは莫大なコストがかかりますから、プーチンはなんとしても欧米の経済制裁をやめさせなくてはなりません。このようにして、「核の使用」に言及するようになったのでしょう。
問題は、これが「狂人」の振りをした合理的戦略なのか、ほんとうに狂人になってしまったのかがわからないことです。
『週刊プレイボーイ』2022年3月14日発売号 禁・無断転載