すこし前の話ですが、都内の有名私立大学でバレーボールのサークルに入っている女の子がアルバイトにやってきたので、みんなで歓迎会をすることになりました。
最近の学生事情などを教えてもらいながら楽しくおしゃべりして、私のワイングラスが空くと、その女の子がボトルをもって注ごうとしました。びっくりして「そんなホステスみたいなことしなくていいよ」といったのですが、きょとんとした顔をしています。
話を聞いてみると、大学の体育会系サークルでは後輩が先輩にお酌をする決まりになっていて、どこでもそうするのが当たり前だと思っていたといいます。「それっておかしいと思わないの?」と訊くと、「わたしはヘンだなと思ってたんですけど……」とのことです。
彼女は3年生で、4年生は就活で抜けるので、今年からサークルの最上級生です。そこで、「こんな封建時代みたいなことは自分たちの代でやめようって提案したらどう?」と訊くと、真顔で「そんなことぜったいできません」といいます。同級生はみんな2年間の下積み(召使い扱い)に耐えて、ようやく自分たちが「主人」に昇格できたのに、その既得権を放棄しろなどといったら仲間外れにされ、サークルにいられなくなるというのです。
サークルの飲み会は男女一緒のことも多いというので、「だったら男の先輩にもお酌するの?」と訊いたら、「それはないです」とのことで、男子サークルでは男の後輩が先輩の世話をするのだそうです。さすがに「一流大学」では、この程度まで男女平等が浸透してきたのでしょう。
そのとき思ったのは、日本社会の問題は「男性中心主義」というより(もちろんその影響が根強く残っているのはたしかですが)、「先輩―後輩の身分制」ではないかということです。
「リベラル」とされる新聞社や出版社のひとたちと話をする機会がたまにありますが、そんなときいつも不思議に思うのは、「彼/彼女とは同期で」とか、「2コ上/下で」という会話が当たり前のように出てくることです。
リベラリズムの原則は、「人種や性別、性的志向のような(本人には変えることのできない)属性で評価してはならない」です。年齢ももちろん、毎年1歳ずつ“強制的に”増えていく属性です。そのため欧米では、年齢での人事評価は「差別」とされ、応募書類には顔写真を貼るところも生年月日を記載する欄もありません。会社では、職階が同じなら20歳と若者と40代、50代のシニアは対等です(それが行き過ぎて、上司と部下も友だち言葉で話すようになりました)。
「同期の桜」という軍歌があるように、先輩―後輩の厳格な身分制は軍隊の階層社会の根幹でした。それにもかかわらず日本では、「軍国主義に反対する」はずのリベラルなひとたちですら、自分たちの組織の「軍国主義」を当然のように受け入れています。
オリンピック組織委員会の会長問題で日本社会のジェンダーギャップの大きさがあらためて浮き彫りにされましたが、その背景には、「先輩に逆らえない」という強固な体育会系文化があるのではないでしょうか。
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