新型コロナに翻弄される東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会ですが、こんどは森喜朗会長の「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」との発言に翻弄されています。翌日には「不適切な表現だった」と撤回・謝罪したものの、国際社会からも「女性蔑視」と見られており、オリンピック開催にさらなる暗雲が漂うことになりました(その後、森会長は辞任)。
発言の内容はたしかに問題ですが、すでにさんざん批判されているので、ここでは別の視点から考えてみましょう。
女性や移民・外国人、異なる人種や性的志向などの属性にネガティブなステレオタイプを当てはめることが「差別」です。森会長の発言は、「女性は話が長くて迷惑だ」と根拠を示さず(伝聞で)決めつけたのですから、差別・偏見と見なされてもしかたありません。
やっかいなのは、すべてのステレオタイプをなくせばいいわけではないことです。「リベラル」を自称するひとたちはそのように考えているかもしれませんが、もしそんなことになったら社会は大混乱に陥るでしょう。
多くのひとが集まる社会はとてつもなく複雑ですが、脳の認知能力には限界があります。人類が大半を過ごしてきた旧石器時代には、それにもかかわらず即座に判断・行動しないと生命にかかわるような場面がたくさんあったでしょう。そんなとき使われるのがステレオタイプ、すなわちパターン認識です。
奇声を発しながら近づいてくる見知らぬ男がいたとして、彼がどのような人物で、なにを意図してそのような行動をしているのかをじっくり観察していたら、あっという間に殺されてしまうかもしれません。そんなときはネガティブなステレオタイプをその男に当てはめ、即座に逃げ出した方が生存確率は高まります。
ところがその男は、友好的に交易を求めていて、異なる社会の言語で呼びかけていただけかもしれません。この場面を現代の価値観で判断すると、男を敵だと決めつけたのは「差別」で、じっくり話し合うのがPC(政治的に正しい)ということになるのでしょうが、人間はそんなふうに進化してきたわけでありません。
「俺たち」と異なる他者(奴ら)がどのような人物なのか(利益をもたらすのか、危険なのか)を短時間で判断するには、「型にはめる」以外にありません。このようにしてわたしたちは、乏しい認知能力の制約を補ってきたのです。
これが無意識の仕様であることは、森会長を批判するひとたちが、「老害」などといって高齢者へのネガティブなステレオタイプを平気で使っていることからも明らかでしょう。日常生活のほとんどはパターン認識で処理されているので、それなしには生きていくことすらできないのです。
だったらどうすればいいのか。それは上手に「空気」を読んで、ステレオタイプを当てはめてはならない場面で適切に振る舞うすべを学習することです(そもそも森会長は、「女は話が長い」などという話をする必要はまったくありませんでした)。これはますます「リベラル化」する現代社会に必須のスキルですが、83歳の老人にはいささかハードルが高かったようです。――おっと、これも典型的なステレオタイプですね。
『週刊プレイボーイ』2021年2月15日発売号 禁・無断転載