「合成麻薬MDMAで挙げられた沢尻エリカは警察にとって金星か、マスコミにとって堕ちた天使か、ファンにとって殉教者か。彼女がそれらのいずれにもならぬことを願いたい。いまどき有名スターが合成麻薬で捕まって全国的なスキャンダルになるのは世界広しといえども日本くらいのものだ。たかが合成麻薬ぐらいで目くじら立てて、その犯人を刑務所にやるような法律は早く改めた方がいい」
いまの日本でこんなことをいったらたちまち袋叩きにあうでしょうが、じつはこれは、大物フォーク歌手がマリファナ所持で逮捕されたことを受けて、1977年の毎日新聞に掲載された編集委員(関元氏)の「たかが大麻で目くじら立てて…」という文章の一部を変えたものです。
関氏はここで、マリファナおよび薬物乱用に関する全米委員会の報告書を引きながら、日本のマリファナ取締りは科学的というよりタブーめいた先入観に立脚していると批判しています(佐久間裕美子『真面目にマリファナの話をしよう』文藝春秋)。驚くべきことに、40年前はこうした論説が全国紙に堂々と掲載されていたのです。
その後、欧米社会のドラッグ使用者への扱いは、「犯罪者」から(アルコールやギャンブルの依存症者と同様に)精神疾患に苦しむひとたちへと変わっていきます。もちろんだからといって、ドラッグ依存症者への差別がなくなったわけではありません。しかし、メディアが芸能人のドラッグ使用を暴いたり、それを理由に映画やテレビに出演させないなどということは考えられません。――そんなことをしたら出演者が誰もいなくなってしまうからかもしれませんが。
ギタリストのエリック・クラプトンは映画『12小節の人生』で、アルコールとドラッグに溺れた日々を赤裸々に語っています。ドキュメンタリー映画『オールウェイズ・ラヴ・ユー』では、不世出の歌姫ホイットニー・ヒューストンが、成功の絶頂からドラッグで無残に変わり果てていくさまが描かれました。
さまざまな困難を乗り越え、依存症を克服して人生の後半になってようやく愛を手に入れた男の物語でも、とてつもない才能に恵まれながらも依存症との戦いに敗れ、なにもかも失って死んでいった女性の悲劇でも、ドラッグ使用を批判するような描写はいっさいありませんでした。
欧米では、ドラッグの密売で利益を得ることは犯罪ですが、自分の稼いだお金でドラッグを使うことは「本人の勝手」、ドラッグで人生が破綻したりホームレスになることは「自己責任」、過ちに気づいて依存症を克服しようと決意すれば「支援」の対象です。なぜなら、ドラッグの使用そのものは誰の迷惑にもなっていないからです。
このようにいうと、「大河の撮り直しで関係者がものすごく苦労しているじゃないか」というひとが出てきますが、そもそも逮捕などしなければいいだけの話です。
かつての日本は、このような議論がごくふつうにできました。マリファナ合法化に見られるように欧米がどんどんドラッグに寛容になっていくのに対し、日本だけがなぜ逆行し、ますます不寛容になっていくのか。
これは日本社会と日本人を考える興味深いテーマかもしれません。
『週刊プレイボーイ』2019年12月2日発売号 禁・無断転載