あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」がわずか3日間で中止されました。慰安婦像や昭和天皇をモチーフにした映像作品を展示したことが政治家などから批判され、脅迫行為にまで発展したためと主催者は説明しています。
この事件に関してはすでに多くが語られているので、ここではすこし別の視点から考えてみましょう。それは「共感」です。
前提として、「表現の自由」はもちろん守られるべきですが、「どのような表現でも許される」などということはありません。「そんなことはない」というのなら、バナナを持ったオバマ元大統領のイラストをネットにアップして、「表現の自由だ」といったらどんなことになるか試してみればいいでしょう。
リベラルな社会には暗黙の、しかし厳然たる「ポリティカル・コレクトネス(PC/政治的正しさ)のコードがあります。マイノリティを侮辱したり、攻撃したりするような「PCに反する表現」は事実上、禁じられているのです。
問題は、PCのラインがどこに引かれているのか、誰も納得のできる説明ができないことにあります。その代わり、「他人を傷つけるような表現は許されない」という「共感の論理」が使われます。バナナを持つオバマ元大統領のイラストは、世界じゅうの黒人を侮辱し、傷つけるから「表現の自由」の範囲には入らないのです。
ここまでは、極端な「自由原理主義者」を除けば、すべてのひとが合意するでしょう。しかしこの論理を拡張していくと、たちまち広大なグレイゾーンにぶつかることに気づきます。
社会が「リベラル化」するにつれて、女性や障がい者、LGBTなどへの侮辱は許されなくなりました。しかしそうなると、「日本人」への侮辱はどうなるのでしょう?
慰安婦像の展示に憤慨しているひとたちは、「日本人」であることを侮辱され、傷ついたと主張しています。だとしたら「表現の不自由展」を擁護するひとたちは、なぜ黒人や女性とは異なって、自分が「日本人」であることに強いアイデンティティをもつひとたち(日本人アイデンティティ主義者)を侮辱することが許されるのか、彼ら/彼女たちに説明しなければなりません。
「日本人は日本社会ではマジョリティだ」というかもしれませんが、日本人アイデンティティ主義者の自己認識は、「慰安婦問題や徴用工問題のような70年以上前の「歴史問題」によって攻撃され、差別されているマイノリティ」です。「日本人を侮辱しているわけではない」という反論は、「黒人を差別しているわけではない」という差別主義者の主張と区別できません。欧米のイデオロギー対立も同じですが、こうした議論は感情的な対立を煽り、双方の憎悪がとめどもなく膨らんでいくだけです。
だとしたら問題は、「他人を傷つけてはならない」という「共感の論理」にあるのではないでしょうか。
「共感」とは無関係に「表現の自由」を定義できるなら、「傷ついた!」という人が現われても、「それは自由な社会を守るためのコストだ」と説明できます。もっとも、そのような明確な基準がないからこそ、世界じゅうでPCをめぐる混乱が起きているのでしょうが。
参考:ポール・ブルーム 『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』(白揚社)
『週刊プレイボーイ』2019年8月26日発売号 禁・無断転載