知識社会におけるもっとも不愉快な事実(ファクト) 週刊プレイボーイ連載(394)

ひとはみな、さまざまな能力をもって生まれてきます。それにもかかわらず、私たちが生きている「知識社会」では、言語運用能力と論理・数学的能力が高い者だけがとてつもなく有利になります。

子どもたちの知的能力を評価し選抜するのが学校システムで、ノーベル賞を取るような天才でなくても、よい大学を卒業すればおおむねよい生活が保証されます。それに対して足が速い(運動知能)とか歌がうまい(音楽知能)とかは、きわだって高い能力をもち、圧倒的な努力をし、なおかつ幸運に恵まれなければ成功できません。

誰もが知っていながら口を閉ざしている事実(ファクト)とは、「知識社会における経済格差は“知能の格差”の別の名前」ということです。

知識社会のもうひとつのタブーは、「すべてのひとが一定以上のリテラシー(知的能力)をもっている」という「虚構」を前提に社会が成り立っていることです。

福祉国家は、身体的・精神的障がいなどで生きていくのが困難になったひとたちに生活保護を提供します。その原資は国民の税金ですから給付の基準にはさまざまな議論があるでしょうが、生活保護をはじめとするあらゆる行政サービスのもっとも大きな特徴は「申請主義」だということです。

生活保護を受けるには、自治体ごとに定められた詳細なルール(どの程度の資産なら保有を認められるか、など)を熟知し、障害者手帳など公的書類を添えて、自らの境遇が受給基準に合致していることを文書化できなければなりません。行政の窓口で、どれほど困っているかを大声で訴えても相手にされないのです。

これだけの事務作業を一人でできるのは、それなりの知的能力をもったひとでしょう。だとすれば、よほどの不運が積み重なったりしなければ、生活保護を申請するような事態にはならないともいえます。これは、「生活保護を申請する必要のあるひとは生活保護を申請できない」というカフカ的状況です。

このギャップを埋めるのが生活保護の申請をサポートするボランティア団体ですが、同じことを収益事業にすると「貧困ビジネス」になります。とはいえ、ボランティアにも最低限の収益は必要なのですから、両者のあいだには広大なグレイゾーンがあり、しばしば深刻な対立を引き起こします。しかしその背景に、「行政手続きを行なうだけのリテラシーがない」ひとたちが膨大にいることは常に隠蔽されています。

このことは、かんぽ生命の不祥事でも同じです。保険の不正な乗り換えを勧誘した営業マンは、「郵便局というだけで、高齢者の場合、だましやすい」と述べています。年金で生活できる高齢者に保険は必要なく、金融リテラシーの高いひとはそもそも保険に加入しません。だからこそ、保険の内容を理解できないリテラシー(知的能力)の低い顧客を集中的に狙うのです。

そんな話を、新刊『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』(集英社)に書きました。ますます高度化する知識社会では、直感や本能だけ頼っていると、ほとんどの場合、「ぼったくられる」側に追いやられてしまうのです。

週刊プレイボーイ』2019年7月29日発売号 禁・無断転載