出版社の許可を得て、新刊『事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由はある』の「あとがき」を掲載します。本日発売で、Kindle版もリリースされました。
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本書に掲載した『週刊プレイボーイ』のコラムは『Yahoo!ニュース個人』にもアップされています。最近ではネットで読まれることも多くなりました。
Part1「この国で『言ってはいけない』こと」の冒頭にある「女児虐待死事件でメディアがぜったいにいわないこと」は100万ページビュー、「小4女児虐待死事件で、やはりメディアがぜったいにいわないこと」は250万ページビューを超えました。『Yahoo!ニュース』の担当者によると、トピックス(ニュースページのもっとも目立つところに置かれる記事)以外でこれだけのアクセスがあるのは珍しいとのことです。
かつては雑誌コラムは紙で読むものでしたが、いまはウェブへと移行しつつあります。そんな時代の変化とともに、コラムをまとめて単行本にすることもめっきりすくなくなりました。そのなかで、『不愉快なことには理由がある』『バカが多いのには理由がある』『「リベラル」がうさんくさいのには理由がある』(すべて集英社文庫)につづいて4冊目を出す機会に恵まれたことはほんとうに幸運だと思います。
ハンス・ロスリングがすい臓がんで亡くなる直前まで精魂を傾けて執筆した『FACTFULLNESS』は世界的なベストセラーになりました。ここでロスリングは、思い込みを乗り越えさえすれば、世界のひとびとがどんどんゆたかになり、健康で長生きしているという事実(ファクト)が見えてくると述べています。私たちは、それほど悪くない(というか人類の歴史のなかではとてつもなく恵まれた)世界に生きているのです。
ところが世の中にはこの幸運を認めず、「経済格差が拡大し、1%の富裕層と99%の貧困層に分断した」とか、「社会はますます右傾化し、第二次世界大戦前と似てきた」というような呪詛の言葉をまき散らすひとたちが溢れています。
もちろんここには一片の真実があります。「ファクトフルネス」で説明すれば、次のようになるでしょう。
「中国やインドなどの新興国の経済成長で世界の格差は縮小し、ひとびとは(全体としては)よりゆたかになった。ただしその代償として、先進国で中流層が崩壊し経済格差が拡大している。とはいえゆたかな国では、10世帯(アメリカ)から20世帯(日本)に1世帯は資産100万ドルを超えるミリオネア(億万長者)だ」
「知識社会化とグローバル化にともなって、ひとびとの価値観はますますリベラルになっており、日本も一周遅れで欧米に追随している。『反知性主義、排外主義、右傾化』というのは、この巨大な潮流から脱落したひとたちによるバックラッシュだ」
事実(ファクト)を無視した議論につき合うのは、人生という貴重な時間のムダでしかありません。
殺人などの事件数でも、交通事故の死亡者数でも、現在の日本がかつてないほど安全な社会であることはまちがいありません。このことは20年以上前から社会学者などによって繰り返し指摘されていますが、それでも8割以上のひとが「社会はますます危険になり、安全が脅かされている」と感じています。
事実(ファクト)とは無関係に体感治安だけが悪化していくのにはさまざまな理由があるでしょうが、もっとも重要なのは「社会がますます安全になった」ことでしょう。真っ白なシャツに黒いしみがつくとものすごく目立つのと同様に、安全なはずの場所で(スクールバスに向かう児童に刃物を持った男が襲いかかるような)凶悪事件が起きると、ひとびとの関心はそこに集中し、不安や恐怖が広がっていくのです。
戦後日本は「奇跡」ともいわれる驚異的な経済成長を達成しましたが、ゆたかさを手に入れたにもかかわらず日本人の幸福度は上がらないばかりか、逆に下がっているようです。この奇妙な現象はかつて「ジャパン・パラドックス」と呼ばれましたが、いまでは世界じゅうで同じような「パラドックス(矛盾)」が観察されています。この心理も、ゆたかになればなるほど自分より幸福そうな隣人が気になることで(かなりの程度)説明できるでしょう。
『FACTFULLNESS』でも強調されているように、これは私たちの「本能」が世界を正しく見ることを邪魔しているからであり、マスメディアやインターネットがこの「本能」を利用してビジネスしているからでもあります。そしてこれは、『不愉快なことには理由がある』以降、このシリーズで一貫して述べてきたことでもあります。
とはいえこのことで、自分の先見の明を誇りたいわけではありません。まともに考えれば、だれもが同じ場所に到達するというだけのことです。
私たちが直面しているのは、ヒトの脳が狩猟採集の旧石器時代に生き延びるように「設計」されており、「とてつもなくゆたかで平和な時代」のリベラルな価値観とさまざまな場面で衝突するという「不都合な事実(ファクト)」なのです。
2019年7月 橘 玲