京都府舞鶴市での大相撲春巡業で、挨拶をしていた市長が倒れた際、救命措置を施した女性看護師に対して繰り返し、土俵から下りるよう場内放送されたことが波紋を広げています。放送したのは若手行司で、女人禁制の土俵に女性が上がったのを見て気が動転したのだと説明されていますが、独断ではなく周囲の人間から促されたと考えるのが自然でしょう。
女性が下りたあと、土俵に大量の塩をまいて“清め”ていることからわかるように、神聖な土俵に女性が上がってはならないのは「穢れ」ているからです。これは典型的な性差別ですが、相撲協会はずっと「日本の伝統」だと強弁してきました。
インドを旅行して驚くのは、レストランでもカフェでも、どこの飲食店にも女性の従業員がいないことです。ヒンドゥー教では体内から排泄されたものに触れると浄性が落ちるとされており、糞尿を専門に処理する不可触民と同じく、女性の生理も忌み嫌われています。バラモンなど「浄性が高い」とされる階層は家族以外の女性が触れた食べ物には手をつけないため、女性は飲食店で働くことができないのです。
このような理不尽な文化が定着した理由は、インドが高温多湿で人口の稠密な社会だからでしょう。最大の脅威は伝染病で、「腐ったものや汚れたものに触れると病気になる」という因果関係は早くから知られていたはずです。そのため権力者は「浄性」に極端に神経質になり、不浄なことはすべて身分の低い者にやらせ、彼らとの接触を禁忌(タブー)とするようになったのです。
日本の寺社でも女人禁制のところがありますが、浄と不浄の意識はヒンドゥーのカースト制が仏教を介して伝わったものでしょう。女性が土俵に上がってはならないのは日本の伝統ではなく、もとをただせば「インドの伝統」です。
とはいえ、女性を排除する文化が現在までつづいている理由は伝統だけでは説明できません。インドの飲食店を見ればわかりますが、これは男性にものすごく有利な制度です。なんといっても、人口の半分が飲食業の労働市場に参入できないのですから。あらゆる差別に共通するのは差別する側に利益があることで、だからこそ既得権にしがみつこうと屁理屈をこねるのです。
「日本は先進国の皮をかぶった前近代的な身分社会」だと、これまで繰り返し指摘してきました。日本的雇用は非正規や外国人を会社(イエ)の正メンバーから排除する制度で、これによって「正社員」の身分と利権が守られます。こうした身分差別を当然とする社会で、「女は不浄」という性差別が「伝統」の名の下に温存されてきたことは不思議でもなんでもありません。
カースト制の桎梏に苦しむインドは、男女の社会的な性差を示すジェンダーギャップ指数で108位と低迷しています。農村ではいまだに、家同士が決めた結婚を断った女性が顔に硫酸をかけられる「アシッドアタック」が行なわれているのですから当然でしょうが、じつは日本はそれを下回る114位です(2017年)。
今回の出来事を相撲界の珍事に終わらせるのではなく、私たちは自らの内なる差別と向き合うことを求められているのです。
『週刊プレイボーイ』2018年4月16日発売号 禁・無断転