文庫になった『80’s(エイティーズ)』のプロローグを、出版社の許可を得て掲載します。思い出深い写真も合わせて掲載しました。ご覧ください。
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高田馬場の駅前に大きな書店が入っているビルがあった。東京に出てきたばかりのぼくは、たいてい大学のひとつ手前のその駅で降り、授業をさぼって、ビルの地下にある喫茶店で時間をつぶしていた。1970年代末のことだ。
その喫茶店には壁がなく、テーブル席と通路は手すりで隔てられているだけだった。中央に丸いカウンターがあり、サイフォンがずらりと並んでいた。カウンターのなかには、金髪の美しい白人女性がいた。いまならよくあるカフェだろうが、田舎者のぼくは、これまでそんな店を見たことがなかった。
その後ずいぶんたってから、その店が、斬新なレストランを次々と開店して大成功を収めた経営者の1号店だということを知った。――彼の店のひとつで小泉純一郎首相とジョージ・W・ブッシュ大統領の会食が行なわれたといえばわかるだろう。
その経営者は、大学を中退してシベリア鉄道でスウェーデンに渡り、ストックホルムを拠点にヨーロッパ全土を放浪して、帰国後に外食ビジネスを始めた。カウンターのなかの女性とは、そのときに知り合って結婚したのだという。
ある日その店のBGMで、これまで聞いたことのない音楽が流れた。その歌声は一瞬でぼくを虜にしたが、誰が歌っているのかはわからなかった。
その何日か後に、またその音楽が流れた。ぼくは思い切ってカウンターに行くと、美しい女性に曲の名前を訊いた。
彼女はちょっと驚いた顔をすると、「ノーウーマン・ノークライ」と教えてくれた。
「ボブ・マーリー。わたしも大好き」
誰にでも、なぜか記憶に刻み込まれて忘れられない些細な出来事がある。これはそんな私的な物語だ。
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古都モスタルは、サラエヴォと並ぶボスニア・ヘルツェゴビナの観光地として知られている。アドリア海に面したクロアチアの城塞都市ドブロヴニクから日帰りするのが定番の観光コースだが、できればサラエヴォからの路線バスで行きたい。
ディナル・アルプスはアドリア海に沿ってバルカン半島を南北に縦断する山脈で、ボスニア南部のヘルツェゴビナ地方の町は標高2000メートル級の山沿いに点在している。サラエヴォを出発したバスは、ネレトヴァ川に沿ってこのディナル・アルプスを越えていく。眼前に勇壮な岩山や渓谷、透き通った湖が次々と現われる幻想的な光景は、これまで体験したバスの旅のなかでもっとも記憶に残るものとなった。
バスがモスタルの町に近づくと、山の頂に巨大な十字架が見えてくる。だがその一方で、15世紀にオスマン帝国によって開発されたこの街は、古い石造りの建物やモスクなど往時のイスラームの面影をよく残していることでも知られている。
モスタルの文化遺産のなかでもっとも有名なのが、ネレトヴァ川にかかるスタリ・モストだ。16世紀につくられたアーチ型の橋で、橋脚をもたないシングル・スパン・アーチとしては現存する世界最古のものとされている。イスラーム建築の技術水準の高さを象徴する貴重な遺産だが、ユーゴスラヴィア紛争さなかの1993年11月に破壊されてしまった。
内戦が終わると、ユネスコを中心にスタリ・モストを再建する計画が持ち上がり、世界各国から寄付を募り、切り出された石を当時の技法にしたがって精巧に組み上げた。2005年に橋が完成すると旧市街を含めて世界遺産に登録され、その数奇な運命によって多くの観光客を集めている。
スタリ・モストと並んでこの地を訪れた観光客を驚かせるのは、車道(ブレヴァール通り)を挟んで雰囲気がまったく変わることだ。道路の東側がボスニア人の住む旧市街、横断歩道を渡ればクロアチア人地区で、南の山頂に町を見下ろす巨大な十字架が建てられ、カトリック教会の高い塔がそびえるヨーロッパ風の整然とした街並みがつづく。
この町の住人たちは、特別な用事がないかぎり、道路を渡って相手の地区に行くことはない。人口10万ほどの小さな町は、たった1本の道路で完全に分断されている。
観光のあと、旧市街のカフェでワインを飲みながらチェバプチェチェという郷土料理を食べた。羊肉のケバブにピタパンを添えたもので、トルコ料理によく似ている。こんなところでワインをボトルで頼む客は珍しいらしく、ひとのよさそうな店主は片言の英語でかいがいしく世話を焼いてくれた。
その後、道路を渡ってクロアチア人地区を訪れた。町の外れに大きな墓地があって、真新しい墓石の前には美しい花が置かれていた。墓石に刻まれた没年のほとんどは、凄惨な内戦が勃発した1992年からの4年間だ。墓地の向かいは閑静な住宅街で、そこから麻のジャケット姿の金髪の男性が犬を連れて出てきた。
旧市街のカフェの親切な店主も、犬を散歩させている恰幅のいい紳士も、年齢は40代だろうか。ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争が終結したのは1995年だから、まだ20年ほどしか経っていない。そう考えて、ふと不思議な気持ちになった。20代のあのとき、彼らはなにをしていたのだろう。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、ユーゴスラヴィア軍の支援を受けたセルビア人勢力がサラエヴォのボスニア人(ムスリム)を包囲・狙撃し、スレブレニツァでは7000人余のボスニア人捕虜を処刑したことなどから、「加害者」=セルビア人、「被害者」=ボスニア人として語られることが多いが、事実はずっと複雑だ。
内戦勃発前の1991年の人口調査によると、モスタルの約12万人の住民は、ボスニア人34.9パーセント、クロアチア人33.8パーセント、セルビア人19.0パーセント、ユーゴスラヴィア人10.0パーセント、その他2.3パーセントとなっている。
この調査で「ユーゴスラヴィア人」として登録されているのは、両親の宗教が異なっているなどの理由で、自分のアイデンティティを特定の宗教・民族に結びつけるのを嫌ったひとたちだ。サラエヴォと同じくモスタルでも、内戦前のひとびとは宗教のちがいを気にせず隣人としてつき合っていた。
だがセルビアやクロアチアで民族主義が台頭すると、この多様性がモスタルの住民を疑心暗鬼に突き落とす。どの民族も単独で多数をとることができない以上、どこと手を組むかで自分たちが多数派になることもあれば、少数派として迫害されることにもなりかねないのだ。
内戦が勃発すると、圧倒的な装備をもつセルビア人に対抗して、ボスニア人とクロアチア人が軍事同盟を結んだ。ところがモスタルではセルビア人の比率は20パーセント弱で、ボスニア人とクロアチア人が手を組むと彼らは圧倒的な少数派になってしまう。
この状況に危機感を抱いたセルビア系住民はスルプスカ共和国(ボスニア内のセルビア人国家)に軍事支援を求めたものの、ボスニア・クロアチア連合軍に撃退され撤退してしまう。セルビア軍がいなくなると、モスタルのセルビア人は身を守る術をすべて失った。ボスニア人とクロアチア人は市内のセルビア人のほとんどを虐殺するか追放し、セルビア正教会の聖堂や修道院はもちろん、住宅や墓地にいたるまでなんの痕跡も残さず破壊し尽くした。
こうしてセルビア人の「民族浄化」が完了すると、こんどは共通の敵を失ったボスニア人とクロアチア人が敵対するようになる。
モスタルには他の地域のセルビア人民兵組織から逃れてきたボスニア人が続々と避難してきており、その数は人口の一割を超える1万8000人に達した。クロアチア人はこの大量流入によって勢力の均衡が崩れることを恐れて避難民の強制退去を命じ、それでも市内に残っているボスニア人市民を標的に総攻撃を開始したのだ(佐原徹哉『ボスニア内戦』)。
モスタルの内戦では、クロアチア人側の指導者が戦争犯罪や人道に対する罪などによって、旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から訴追されている。ここでは「加害者」はクロアチア人、「被害者」はボスニア人で、ふたつの民族はいまも交流がないまま暮らし、行政組織も二重になっている。クロアチア人は観光客が押し寄せる旧市街のボスニア人地区を冷ややかに眺めているだけだ。
だがこの町にはもうひとつ、「語られない歴史」がある。
モスタルに古くから暮らしていた2万人を超えるセルビア人はいまではほとんど残っていない。故郷に戻ったひとたちもわずかにいるが、彼らには家や職ばかりか先祖の墓すらも残されていない。一人ひとりの人生の記録だけでなく、共同体の歴史までなにもかも完全に消えてしまったのだ。
この美しい町には、かつてセルビア正教会を中心にセルビア人が暮らす一角があった。だが、モスタルを訪れる観光客がその事実を知ることはない。ボスニア人にとっても、クロアチア人にとっても、不都合な歴史だからだ。
自分の目で見たことがすべてではなく、見えないものこそを物語ること――旅はときどき、そんな大切なことを教えてくれる。
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もの書きになってから20年ほど、時間ができると世界を旅している。
かつてのユーゴスラヴィアの首都ベオグラードは、現在はセルビア共和国に属しているが、1999年にコソボ紛争の懲罰として米軍を中心とするNATO(北大西洋条約機構)の空爆を受け、いまも廃墟になったビルが残っている。セルビア人とアルバニア人の民族対立から泥沼の内戦が始まったコソボでは、首都プリシュティナの中心部にベオグラード空爆を決めた米大統領ビル・クリントンを顕彰する銅像が建っている。
ぼくが旅をする理由は、想像力が足りないからだ。実際にその土地を訪ねてみないと、人口の九割が敬虔なムスリムであるコソボになぜアメリカの星条旗があふれ、首都に「ビル・クリントン通り」があるのかなんて、考えることはなかっただろう。
ムガル帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建てたタージ・マハルで知られる北インドの古都アーグラに、「シェローズ・ハングアウト」という、アシッド・アタックの被害者が運営する小さなカフェがある。アシッド・アタックはインドをはじめとして南アジアで頻発する、若い女性の顔に硫酸・塩酸などの酸(アシッド)をかける犯罪行為のことだ。
アーグラのこのカフェはインターネットで知って、インド旅行のついでに訪ねてみた。
カフェは幹線道路に面した小さな一戸建てを改築していて、中庭のテラス席では若い白人女性が1人で本を読んでいた。1階にはテーブル席が6つか7つあり、左手の大テーブルはスタッフが使っていた。壁の書棚に自由に読める本が並べられ、部屋の奥には試着室があって、これも若い白人女性がサリーの着付けをしてもらっていた。それを手伝っている女性の顔にははっきりとわかる傷があった。
アメリカ、テキサス州のエル・パソを訪れたのは、第45代アメリカ大統領にドナルド・トランプが選ばれた直後だ。トランプの掲げる政策は、オバマケア廃止、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)からの離脱、ムスリムの入国禁止、米国の雇用を減らす企業への制裁などいろいろあるが、そのなかでもっとも耳目を集めたのは「メキシコとの国境に万里の長城をつくる」だろう。
ところがメキシコとの国境がどうなっているのかグーグル・アースで見てみると、そこには壁のようなものが映っている。これはいったい何なのか。ニューヨークの知り合いを訪ねるついでに、アルバカーキで車を借りて見にいくことにした。
エル・パソの西で幹線道路から外れて国境に近づくと、巨大な黒いフェンスが現われる。高さ五メートルほどで、それがえんえんとつづいている。調べてみると、米墨国境にはじめてフェンスがつくられたのは冷戦が終わった1990年にさかのぼり、9.11同時多発テロ後のブッシュ政権下で政府に壁の建設を義務づける全フェンス法が成立(2006年)、それがオバマ政権でも継続され、いまではエル・パソから西のカリフォルニアに向けて1130キロもつづいている。総延長が国境の3分の1に達するこの建築物を「壁」と呼んでいいのなら、トランプの主張のずっと前にすでに「万里の長城」はできていた。
ヨルダンの首都アンマンのホテルでニュースを見ていると、爆発で壊れかけたビルが映し出された。2013年12月27日にベイルートの中心部で起きた爆弾テロで、反シリア派の元財務相を含む七人が死亡、70人以上が負傷した。このニュースになぜ驚いたかというと、翌日、まさにその場所に行くことになっていたからだ。
ベイルートではそれ以前にも、住宅地にロケット弾が射ち込まれたり、駐車場の車が爆発したり、イラン大使館前の路上の連続爆弾テロで大使館職員を含む多数の死傷者が出たりしていた。だがこれらの事件はすべてシーア派住民が多く住む南郊外で起きていて、観光客が集まる中心部が標的となることはなかった。
ぼくは一介の旅行者で危険な場所に行く気はないのだが、いまさら旅程を変えるわけにもいかず、恐る恐るベイルートの国際空港に降り立った。しかし到着ロビーを見回しても警官の姿はなく、目につくのはタクシーの客引きばかりだ。そのなかの一人と料金交渉がまとまると、彼は満面の笑みでいった。
「ウエルカム・ベイルート!」
ぼくはジャーナリストではないから、旅のいちばんの目的は観光だ。
ナイアガラ、ヴィクトリア、イグアスの「世界三大瀑布」はすべて訪れた。イグアスでは国立公園のなかに一軒だけあるホテルに泊まって、観光客の誰もいない早朝の散策ルートを歩き、大迫力で流れ落ちる「悪魔の喉笛」の雄大な景観を独り占めすることができた。
古代文明の遺跡では、エジプトのナイル川に沿った巨大な遺跡群や、ヨルダンのペトラに残された壮大な石の寺院に圧倒された。古代ギリシア文明を象徴するクレタ島のクノッソス、エルサレムの神殿の丘や岩のドーム、古代中国・西安の兵馬俑(へいばよう)やカンボジアのアンコールワット、ミャンマーのバガンの仏塔群も強く印象に残っている。
標高3400メートルのアンデス山脈にあるインカ帝国の首都クスコから列車に乗ってマチュピチュを訪ねたこともあるし、中国の西寧から「天空列車(青蔵鉄道)」で標高3700メートルのラサにも行った。ジンバブエでは国立公園でもないふつうの道に突然、キリンが現われてびっくりした。ボルネオのジャングルではオランウータンの群れが間近にいて、ガイドから「こんなことは1年に数回しかないよ」と驚かれた。
エーゲ海に浮かぶサントリーニ島から「世界一の夕陽」を眺め、モロッコのサハラ砂漠ではベドウィンのテントに朝日がのぼった。マルタ島から地中海を、ミコノス島からエーゲ海を、ベネチアからアドリア海を、シチリアのカターニアからイオニア海を、ドミニカのサント・ドミンゴからカリブ海を、リオデジャネイロから南大西洋を、モーリシャスからインド洋を、ゴアやムンバイからアラビア海を見た。
ぼくが通っていた高校は高台にあって、体育の時間以外はずっと窓から外を眺めていた。東海道新幹線が走っていて、その先に銀色に輝く海が広がっていた。
あの海の向こうにはなにがあるんだろうと、ずっと思っていた。