テロや組織犯罪への対処措置を定めた「国際組織犯罪防止条約(TOC条約)」締結のためとして政府が国会に提出した「テロ等準備罪」の通称は「共謀罪」です。報道各社の世論調査ではおおむね賛成の方が多いようですが、どちらの名称を強調するかによって結果がかなり変わります。「テロ等準備罪」だと「テロ対策に必要ならいいんじゃないの」と思い、「共謀罪」だと「なにもやってないのに“共謀”しただけで犯罪になるのか」と不安になる、というわけです。
「共謀罪」を批判するひとたちは、国家が市民の思想信条を取り締まる「監視社会」になることを危惧します。近代国家はすべての“暴力”を独占する巨大な権力で、その行使を民主的に統制することはきわめて重要ですから、この主張には一理あります。しかしその一方で、「権力は悪だ」と言い募るだけでは、「警察も司法制度も廃止してしまえ」ということになりかねません。
話がややこしくなるのは、「TOC条約締結のために国内法の改正が必要」ということには野党も同意していることです。だとすれば、あとはどこをどう変えるかの技術論で、ほとんどのひとは「専門家同士で決めればいい」と思うでしょう。こうして賛成派が増えることを“リベラル”なメディアは「国民の理解が進んでいない」と嘆きますが、条文の一言一句まで理解しなければ正しい意見がいえないというのでは、ちょっと“上から目線”な気がします。
「テロ等準備罪」に賛成する保守派のひとたちも、これによって監視社会化が強まることを否定しているわけではありません。監視しなければ、組織犯罪を「共謀」している証拠はつかめないのですから。だとすれば問うべきは、「ひとびとはほんとうに監視社会に反対しているのか」ということでしょう。
千葉県松戸市で、登校途中の小3女児が行方不明になり、2日後に排水路脇の草むらで絞殺遺体が発見されました。この事件では当初、誰がどのように女児を連れ去ったのかわかりませんでしたが、これは東京など都心部ではあり得ないことです。いまや駅や商店街だけでなく、マンションや一戸建てでも監視カメラの設置が一般的になり、公道において録画されずに犯罪を行なうことなど不可能だからです。
技術進歩で安価に監視カメラを設置することが可能になって、「治安維持」を名目に警察や自治体が市民を撮影しはじめました。10年ほど前までは、これがプライバシー権の侵害だとの批判がありましたが、監視カメラが爆発的に増えたことでこうした声は消えていきます。
千葉県の女児殺害事件の捜査が難航するのを見て、多くの人は「なぜ通学路に監視カメラがなかったのか」と思ったでしょう。「絶対安全」を求めるようになった日本人は、いまや監視されることを望んでいるのです。だとすれば、「共謀罪」への国民の理解が進まないのも当たり前です。
監視カメラや通学路の見守りは、「外」から犯罪者や異常者が侵入することを防ぐのが目的です。しかし現実には、女児を殺害したのは小学校の保護者会の会長でした。「共謀罪」をめぐる議論から抜け落ちているのは、「おぞましいものは自分(たち)のなかにある」という視点なのかもしれません。
参考:「共謀罪」各社世論調査(朝日新聞2017年4月25日朝刊)
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