太平洋戦争末期、独立工兵第36連隊の二等兵・奥崎謙三は敗残兵として、飢餓と疫病の蔓延するニューギニアのジャングルに置き去りにされました。銃撃によって右手小指を吹き飛ばされ、右大腿部を銃弾が貫通し、左手一本で濁流の川を泳ぎ渡って逃げ延びようとしたものの頭部に銃弾を受け、とうとう死を覚悟せざるを得なくなります。
奥崎は、山中で腐り果て、蛆虫にたかられ山豚の餌になるよりは、ひとおもいに米兵に射殺された方がマシだと思い、酋長らしき男の前に飛び出して自分の胸を指差します。ところが酋長は、「アメリカ、イギリス、オランダ、インドネシア、ニッポンみんな同じ」といって、奥崎に食事をふるまったあと米兵に引き渡したのです。
奥崎はこうして終戦の1年前に捕えられ、俘虜収容所で玉音放送を聴くことになります。ニューギニアに送られた独立工兵第36連隊千数百人のうち、生き残ったのは奥崎を含めわずか8名でした。
帰国した奥崎は結婚して神戸でバッテリー商を営みますが、不動産業者とのトラブルから相手を刺し殺し、傷害致死で懲役10年の刑に処せられます。大阪刑務所の独居房で奥崎は、自分はなぜあの戦場から生きて日本に戻ってきたのかを考えます。そして、この世のすべての権力を打ち倒し、万人が幸福になれる「神の国」をつくることこそが、ニューギニアで神が自分を生かした理由であり、戦争責任を果たそうとしない天皇を攻撃することで自らの信念を広く世に知らしめるべきだと決意したのです。
出所後の1969年1月2日、新春の一般参賀で、奥崎はバルコニーの天皇に向かってゴムパチンコで数個のパチンコ玉を撃ち込みました(暴行罪で懲役1年6カ月の実刑)。
この事件のあと、奥崎の人生は大きく変わります。彼は突如、左翼のヒーローとして祀り上げられたのです。
それまでも左翼の知識人たちは天皇の戦争責任を追及してきましたが、それはたんなる理屈にすぎませんでした。それに対して、レイテ島、インパールと並ぶ太平洋戦争の最大の激戦地から奇跡的に生還した元日本兵は、自らの凄惨な体験に怨念を込め、全身全霊で天皇の責任を問うたのです。
その後、奥崎は連隊の残留守備隊長(中尉)が日本軍の敗戦を知ったあとに、2人の上等兵を敵前逃亡の罪で銃殺刑に処した事件にとりつかれていきます。「捨身即救身」「神軍 怨霊」などと車体に大書した白のマークⅡを駆って、銃殺事件に関与したとされる下士官や軍医、衛生兵のもとを訪ね、ときには暴力をふるって真実を問いただす奥崎の鬼気迫る姿は、ベルリン国際映画祭などで多くの賞を受賞した原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』に描かれています。
奥崎の言動が過激になればなるほど左翼の知識人は彼を神格化し、「東大を出た奴らが跪いてくる」と奥崎も悦に入ります。しかし83年12月、奥崎が上等兵2名を銃殺した責任を認めない元残留守備隊長を殺害すべく、改造銃を持って自宅を訪ね、応対に出た長男に発砲して重傷を負わせたことでこの関係は終わります。それまで奥崎を称賛していた左翼知識人たちは、潮を引くように離れていったのです。――この話は、左と右を逆にすればいま起きていることととてもよく似ているのではないでしょうか。
奥崎謙三は懲役12年の判決を受けて97年に満期出所。05年に死去。享年85でした。
『週刊プレイボーイ』2017年4月10日発売号 禁・無断転載