“フィリピンのダーティーハリー”は「民主主義」の練習問題 週刊プレイボーイ連載(259)

ラオスで開かれたASEAN首脳会議でフィリピンのドゥテルテ大統領が、オバマ大統領への「暴言」を理由に首脳会談を中止される異例の事態が起きました。報道によれば、「フィリピンのダーティハリー」とも称される大統領は、「(オバマ氏は)我々に敬意を払うべきだ」と記者団に述べたあと、タガログ語で「クソ野郎」と罵ったとされています。英訳では“son of a bitch(売春婦の息子)”とされていますからたしかに尋常ではありません。その後、ドゥテルテ氏は「後悔」を表明しますが、これではオバマ大統領としても会談の場に出るわけにはいかなかったのでしょう。

事件の背景には、ドゥテルテ大統領就任以来の国家警察による大規模な麻薬密売人の殺害があります。これまでフィリピンでは警官の発砲に厳しいルールが課せられていましたが、「容疑者が抵抗したら迷わず発砲する」との方針が出されたことで、すでに1000人以上が射殺されたといいます。国連人権高等弁務官が「超法規的な処刑」を非難したことで国連脱退を示唆する騒ぎも起こしており、今回も「フィリピンは主権国家でもう植民地ではない」と反論したあとに、興奮のあまり暴言が飛び出したようです。

これは、「遅れたアジアの無思慮な指導者がアメリカに懲らしめられた」という話でしょうか。

ドゥテルテ氏はダバオ市長時代に、「殺人都市」と呼ばれた街の治安を同様の荒療治で劇的に改善させ、その実績を引っさげて大統領選に挑み大勝しました。選挙中から「自分が大統領になったらマニラ湾が死体で埋まるだろう」と明言していましたから、大統領就任後はその「公約」を実行に移しただけです。フィリピンの選挙は新興国のなかではきわめて民主的に行なわれており、「主権者」である国民が大統領に「超法規的な処刑」の権限を与えたともいえます。

その証拠に、7月21日の世論調査ではドゥテルテ大統領の信認率は91%と歴代最高を記録し、「信認しない」はわずか0.2%で、(麻薬組織を除く)国民全員がその強権を支持しているようです。フィリピンの麻薬問題は深刻で「人権より治安が優先する」と国民が考えているのだとしたら、「独裁者が市民の人権を蹂躙している」と一概にいうことはできません。

近代の主権国家システムでは、「国家が民主的な手続きを経て決めたことは、他国の利益を犯さないかぎり尊重する」のが大原則です。どれだけ麻薬密売人が殺されようと外国はなんの迷惑も被らないのですから、「内政不干渉」の範囲内ともいえます。しかしその一方で、国家が民主的に奴隷制を導入したとしても、国際社会はこれを容認できません。近代社会には主権を超えた普遍的なルールがあるからで、基本的人権もそのひとつです。

じつはこれは、「民主主義」のとてもいい練習問題です。人権が普遍的な価値であるとしても、主権者である国民の意思よりも麻薬密売人の人権が尊重されるべきでしょうか。国連やアメリカは非難するだけで、フィリピンの治安改善のためになにひとつするわけではないというのに……。

この練習問題は、18歳ではじめて選挙権を持った若者にも、国会前で「民主主義を守れ」と叫んでいたひとたちにも、ぜひ考えてみてほしいと思います。

『週刊プレイボーイ』2016年9月26日発売号
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