それに対して限界費用の逓増では、商品を1単位よけいにつくるたびに費用が逓増する(だんだん増えていく)と考える。ここでほとんどのひとは、「あれっ」と首を傾げるだろう。ふつうは、たくさんつくればつくるほどコスト(費用)は安くなるはずだからだ。
もちろんこのことは、「規模の経済」として経済学でも理論化されている。でもミクロ経済学の初歩の初歩では、このことは考えない約束になっている。その代わり、「資本設備が一定で短期の場合」限界費用は逓増すると教えるのだ。
このときによく例に出されるのがレストランのキッチンだ。
自分ひとりで料理をつくっていたら、お客さんがたくさん来てもぜんぜん対応できない。そんなときは、もうひとりコックを雇って手分けして料理をつくればいい。このとき、コックに払う給料(コスト)に対して客に提供できる料理(生産)の増加分は大きいから、限界費用(コックを1人から2人に1単位増やしたときの費用)は小さい。
しかしそうやって、どんどんコックを増やしていけばいいというわけではない。キッチンのスペースには限りがあるし(資本設備が一定)、手順を変えるような時間的余裕もないのだから(短期)、コックが増えるごとに効率は悪くなって、最後には全員が狭いキッチンで身動きできなくなってしまうだろう。すなわち、限界費用が逓増するのだ――。
このたとえ話(ミクロ経済学のちゃんとした教科書に載っている)に、「なるほど」と納得できるひとはどのくらいいるだろうか。
限界効用の逓減は、生ビールのたとえ話で一発で理解できる。法則になんの条件もつけられていないのは、すべてではないとしても(恋愛やセックスの効用は逓減するだろうか?)、それが普遍的に適用できると考えて問題ないからだ。
でも、限界費用の逓増はこんなふうにはなっていない。だいたい、料理人を詰め込みすぎて大混乱しているレストランなんて、誰か見たことがあるだろうか。そもそもキッチンの大きさで最適なコックの数は決まっていて、プロならそれ以下にも、それ以上にもしようとは思わないだろう。ようするに、「資本設備が一定で短期の場合」というのはものすごく特殊なケースで、限界効用逓減のように一般化することができないのだ。
ではなぜ、経済学はこんなあやうい前提を置いているのだろうか。それは、限界費用が逓増しないと理論の根幹が崩壊してしまうからだ。
市場全体における需要と供給の一般均衡を数学的に説明するには、価格に対して右下がりの需要曲線(市場需要)に対して、供給曲線(市場供給)は右上がりになっていなければならない。ところが近代経済学では、この右上がりの供給曲線を限界費用の逓増から導き出している。すなわち、近代経済学の中心命題である一般均衡が成立するには、限界費用は逓増しなければならないのだ。
もちろんこの非現実的な前提は、これまでさんざん批判されてきた。
近代経済学が数学的に完成された1950年代には、早くも企業の管理職へのアンケートによって、実際に限界費用が逓増しているかどうかが調査された。それによると、全1082製品のうち6割ちかくの638製品で平均費用は生産量に応じて低下し(生産設備の上限まで限界費用は逓減しつづける)、その一方で理論どおり限界費用が逓増するとこたえたのは全体の6%以下の製品しかなかった。このアンケート結果は、「つくればつくるほどコストは下がる」という実感にも、「コックが多すぎるレストランなんか見たことがない」という経験にも一致する。まともな科学なら、6割もの反証事例がある仮定は真っ先に棄却されるだろう。
しかし賢いはずの経済学者たちは、非現実的な「合理的経済人」とともに、「限界費用の逓増」という奇妙な仮説にしがみついた。「物理学などとちがって、市場は完全にはモデル化できない。経済学がやっているのは市場の近似的なモデルを数学的に組み立てることで、人間がだいたいにおいて合理的に行動するように、企業人がなんといおうと、限界費用もだいたいにおいて逓増しているのだ」と強弁して――。驚くべきことに、経済学では現実を理論に合わせなければならないのだ。
限界費用が逓増するということは、収穫(利益)が逓減するということだ。すなわち、つくればつくるほど儲けは減っていく。大量生産によってコストを下げる規模の経済は、経済学では例外的な事例なのだ。――これが、企業経営者などビジネスの現場を知るひとたちから「経済学は使いものにならない」とバカにされる理由だ。
1980年代になると、この非現実的な仮定は経済学の内部でも維持することが難しくなってきた。コンピュータなどに使う半導体のように、限界費用が一方的に逓減する産業が経済のなかで重要な地位を占めるようになってきたからだ。さらに90年代にマイクロソフトがウィンドウズを引っさげて市場を席巻すると、データを1単位コピーする限界費用はゼロになってしまった。こうして、「収穫は逓減するのではなく逓増している」という新しい経済学が、複雑系研究の聖地サンタフェ研究所の経済学者ブライアン・アーサーによって唱えられるようになる(塩沢由典『複雑系経済学入門』)。
市場参加者が合理的な期待を形成しないならマクロ経済学の理論的根拠は失われ、限界費用が逓増しないなら、マクロ経済学を基礎づけるはずのミクロ経済学全体が崩壊してしまう。経済学は、「科学」としてけっこうヤバいことになっているのだ。