過激派テロ組織ISISの戦士を生み出したフランスの「国内問題」

「最終解決」したかに見えた移民のゲットー問題

東京の高島平や多摩ニュータウン、大阪の千里ニュータウンのように、フランス郊外の団地も「モダン」の象徴として誕生した(というよりも、日本の団地がフランスの都市計画を模範としていた)。だがその後の歴史は、日本とフランスではかなり異なるものになった。

戦後の復興が進み、1960年代から70年代にかけて経済成長の時代を迎えると、“庶民の憧れ”だった高層の大型団地は日本でもフランスでも急速に陳腐化していった。

団地住民のなかで医師や弁護士など高収入の職を得たひとたちは、東京なら田園調布や自由が丘、パリならセーヌ左岸のカルチェ・ラタンなどの瀟洒なアパルトマンに引っ越していった。異なるのは、そのような資力のない大半の住民の行動だ。フランスでは彼らも「庭付き一戸建て」の夢を求め、団地を捨てて都心からさらに離れた新興住宅地に移住した。この現象を「外郊外化」という。

こうして郊外の大規模団地は、内と外に引き裂かれ、空洞化していった。その空隙を埋めたのがマグレブからの移民とその家族たちだ。

大規模団地を空室だらけにしておけば、家賃収入によって運営される住宅供給管理業者(日本でいうかつての住宅公団)は破綻してしまう。これは大きな政治問題になるから、政府はアパートの建設費用を住宅手当に振り替えて、低所得者層を団地に誘致した。

だがこうした政策は、団地の価値を維持したいと考える不動産業者には大問題だった。移民が住みはじめると白人たちが逃げ出し、物件価格が大きく下落してしまうのだ。

そのため彼らは、当然のことながら、経済合理的な行動をとることに決めた。もっとも辺鄙な場所にある建物に移民を集め、“被害”を最小限に抑えようとしたのだ。このようにして、「同化」を国是とするフランスに移民のゲットー(隔離居住区)が次々と生まれていった。

フランスの郊外問題が決定的に悪化したきっかけは、1993年に「移民ゼロ」を掲げて移民法と国籍法が改正されたことだった。それまでマグレブからの外国人労働者の多くは、資金を貯めたら家族のいる故国に帰ろうと考える出稼ぎだった。だが改正された法律では、移民への国籍付与の道が開かれた一方で、不法移民の追放や家族の呼び寄せの厳格化が定められていた。これによって妻や子どもたちと離れ離れになるのではないかと恐慌を来たしたマグレブ出身者の多くは、法律が施行される前に故国から家族を呼び寄せようとした。結果としてフランスの移民社会はふくれあがり、それが郊外暴動の多発へとつながっていく。

もちろんフランス政府も、こうした状況に手をこまねいていたわけではなかった。

90年代に入る頃には、“モダニズム”の象徴だった大規模団地がまったくの失敗だったことが明らかになった。そこは貧しい移民が「捨て置かれた」場所、いわば社会のゴミ捨て場と化していた。

こうして、荒れ果てた団地を蘇らせる「社会的混合」が華々しく掲げられるようになった。

郊外で暴動が頻発するのは、国是である「同化」に反して移民が「隔離」されているからだ。ならば白人の中流層と貧しい移民を混住させることで両者の交流を促し、「同化」を後押しすればいい――理屈のうえではたしかにそのとおりかもしれないが、具体的にはどうするのだろうか。

東大法学部卒の日本の高級官僚よりもさらにエリート意識の強いフランスの官僚が考えたのは、郊外の自治体に対し、住宅総件数のすくなくとも20%の社会住宅(移民など低所得者層が住む公営住宅)の供給を義務づけることだった。91年制定の都市基本法や95年制定の都市連帯再建法では、この規定に違反して基準を満たせない自治体には罰金が科せられることになっていた。
だが実際に法律が施行されてみると、この野心的な試みほとんど効果がないことが明らかになった。

住宅件数の2割を超える移民がやってくれば、どのような高級住宅地でも地価の暴落は避けられない。それを考えれば、住民たちは喜んで罰金を払うだろう。

こうした「経済合理性」を考えると、罰金の額は地価の下落を上回る巨額のものにする必要がある。だがそのような過剰な懲罰は市民の権利への重大な侵犯として激しい反発を招くから、政治的に不可能だ。地方議員のほとんどはこの試みに反対し、中央の政治家も及び腰になって、自治体の「義務」はたちまちなし崩しになってしまった。

賢明な官僚たちはムチだけでなくアメも用意しており、基準を上回った自治体には補助金が支払われることになっていた。それを見て、すでに移民がじゅうぶんに多く、これ以上増えても地価に影響する心配のない自治体はこぞって社会住宅を建設しようとした。その結果、当初の法の目的とはまったく逆に、移民の集住と隔離をより強めることになった。

次にフランス政府は、都市振興協定(96年)という新しい試みに乗り出した。これは発想を180度転換して、移民たちの集住地区に民間物件よりも家賃が安く居住面積の広いアパートを建設することで、子どものいる若い中産階級を惹きつけようとする政策だった。

しかしすぐに、この試みもほとんど効果がないことがわかった。子どもの教育などを考えれば、多少家賃を下げたくらいでは中流層は移民地区に引っ越そうとは思わないのだ。

2000年になると、郊外問題の「最終解決」として、都市大規模事業プログラムや都市再建事業プログラムが実施された。これは社会問題の元凶となっている大規模団地を物理的に取り壊し、その代わりに中流階級向けの建売住宅を建設するというものだった。

この露骨な外科治療によって、再開発された郊外は見事に生まれ変わった。だが新しくできた建売住宅に低所得者層が住めるわけもなく、彼らは郊外のあちこちに拡散していった。「最終解決」の効果は、大規模団地で育まれた移民たちの大きなコミュニティを破壊し、それを都市の周辺にまんべんなくばらまくことだった。

こうして郊外の暴動は収まり、フランスの移民問題は注目を集めなくなった。すくなくとも今回のテロ事件までは……。