中国にはなぜ「親日派」がいないのか(『橘玲の中国私論』あとがき)

新刊『橘玲の中国私論』より「あとがき」を掲載します。

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中国には「知日派」はいても「親日派」はいない。中国で「親日」のレッテルを貼られると、「漢奸」「売国奴」として社会的に抹殺されてしまうからだ。

これには歴史的な経緯がある。

日中戦争が泥沼化し、首都南京を攻略しても終戦のきっかけがつかめないなか、軍部は謀略によって傀儡政権を樹立することを計画する。白羽の矢が立てられたのは国民党の創設メンバーでありながら蒋介石と対立していた汪兆銘で、参謀本部第八(俗称「謀略」)課長影佐禎昭(かげささだあき)らが工作の中心となった。

1938年7月、汪兆銘の密使として極秘裏に日本を訪れた国民党政府の外交官、高宗武に対し、陸軍大臣、板垣征四郎は「日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石とは両立せぬ、もし蒋に代わって汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし,、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない」と約束した。

日本の敗戦によって、南京の傀儡政府も崩壊した。汪兆銘は終戦直前に病死していたが、その後を継いだ陳公博ら政権要人の亡命を日本政府は受け入れた。だが「戦勝国」である中国国民党政府から彼らの逮捕・送還を要求されると、政府と外務省はパニックに陥った。

外務省の決めた対応策は、「日本政府が信義をおろそかにするものではないことを力説する」としながらも、「結論的に日本政府の公式的な意見は、これを述べることなく、逆に陳主席の意向を引き出し、その次第によってあらためて処置を考える」というものだった。陳公博らの亡命工作を指導した小川哲雄(南京政府軍事顧問兼経済顧問補佐)はこれについて、「要約すれば、日本側から、中国に帰ってくださいとは、とうてい言えないが、帰ってもらえば助かる。何とか主席の面子を傷つけることなく、帰国の雰囲気に話をもってゆきたいということである。誠に虫のよい話。もはや正面きった信義論などどこかに吹き飛んで、厳しい現実に立った妥協が全面に出てきた」と述べている(劉傑『漢奸裁判』中公新書)。

日本に居場所のなくなった陳公博は中国に帰国し、ただちに処刑された。南京政府首相・汪兆銘は、敵国・金と和解するために愛国の英雄、岳飛を処刑した南宋の宰相、秦檜(しんかい)と並び、中国の歴史上最悪の漢奸となり果てた。日本の政治家や官僚は保身のために平然と「信義」を捨て、彼らを見殺しにしたのだ――こうして「親日」と「売国奴」は等号で結ばれることになった。

日本の保守派には中国の歴史認識や反日教育を批判するひとが多いが、元をただせばそこにはすべて理由がある。彼らがときに異常なまでに激高するのは、日本が侵略者であるかぎり、中国側の主張に理があることがわかっているからだろう。理屈で説得できなければ、あとは相手を恫喝するほかはない。

もちろんこれは、中国が「善」で日本が「悪」だということではない。問題は、歴史を善悪二元論でしか理解できない(あるいは理解しようとしない)人間が日本にも中国に多すぎることにある。こういうひとたちはそもそも理解を拒絶しているのだから、相手にしても仕方がない。

私はずっと、資産運用において個人のリスクと国家のリスクを切り離すことを提言してきた。日本が財政破綻し、円が紙切れになることを心配するひとがたくさんいるが、この不安は一定の資産を外貨建てにするだけで解消する。通貨の価値は相対的なものなので、円が紙切れになればその分だけ外貨の価値は大きくなり、トータルでの資産は何が起きても変わらない。

中国や韓国とのやっかいな歴史問題についても、考え方はこれと同じだ。

現代史についての基礎的な知識を持つことは大事だが、どちらの歴史認識が正しいかを議論することには意味がない。ひとは誰も、自分の見たいものしか見ないし、自分の理解したいものしか理解しないからだ。

だったら、国家の歴史認識と個人の人間関係を切り離せばいい。国家同士のくだらない諍いを離れてつき合える友ができたなら、これほど素晴らしいことはないだろう。

この「旅行記」が、中国を旅し、驚きたいひとの役に立てば幸いです。

2015年2月 橘 玲

『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)より