ムハンマドがアラビア半島の一角でアッラーの啓示を受けてからわずか100年で、イスラームはインド・ペルシアからオリエント、北アフリカ、さらにはジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に至る大帝国を建設したが、それはすべての権力をカリフ(イスラーム共同体の指導者)に集中させる“制度イノベーション”によるものだ。教皇が政治的に無力で、各地の王が軍閥と化して勢力争いに血道をあげるヨーロッパは、政教一致のイスラームにまったく歯が立たなかった。
だが近代になって、そのヨーロッパから「国民国家」というさらに巨大な制度イノベーションが誕生すると、一転してイスラームは大きな困難に見舞われることになる。国民国家の統合の原理は「民族」という世俗の存在だから、国家の建設には政教分離が不可欠だ。しかしクルアーンは民族(部族)を超えた宗教共同体の思想で、イスラームからは近代的国家を生み出せない。その結果オスマン帝国(イスラーム世界)は西欧列強の植民地として切り刻まれ、解体されてしまった。
第二次世界大戦後、オスマン帝国のかつての領土から多くの国家が独立した。トルコはイスラームと訣別し、トルコ民族による世俗的な国民国家として再出発した(カリフ制もこのとき正式に廃止された)。イランは皇帝が統治する王朝(パフラヴィー朝)に戻り、サウディアラビアやクウェート、アラブ首長国連邦などアラビア半島の国では部族の長が王を名乗った。これらの国はいずれも「近代国家」と認められ、国連に加盟することになった。
しかしここには、きわめて重大な矛盾が隠されている。アラブの国々は自らを“イスラーム国家”だとするが、果たしてクルアーンはこのような「国家」を認めるだろうか。
イスラーム世界を揺るがした3つの事件
現代のイスラーム問題を考えるうえで、1948年のイスラエル建国の影響がとてつもなく大きいのはいうまでもない。だが四次にわたる中東戦争はイスラームとユダヤ教の宗教戦争ではなく、ユダヤ民族とパレスチナ民族(およびアラブ民族)との民族紛争で、これによってアラブ世界に民族主義が勃興した。
それに対して1979年に起きた3つの事件は、イスラーム世界を大きく揺るがすことになった。
この年の2月に、イランでウラマー(イスラーム法学者)であるホメイニーを指導者とする宗教革命が起こった。このイラン革命を受けて、11月にはサウディアラビアの聖都マッカ(メッカ)で武装反体制派が蜂起し、王制打倒を主張してカアバ神殿を占拠した。また12月には、アフガニスタンの武装ムスリム勢力(ムジャーヒディーン)の反乱に手を焼いたソ連が本格的な軍事侵攻に踏み切った。
革命後のイランは国民投票によって国名を「イラン・イスラーム共和国」とし、イスラーム法の支配を明記した憲法を採択し、現代に政教一致のイスラーム政治をよみがえらせた。当初、国民がこの宗教革命に熱狂したのは、王制時代の腐敗や圧政のせいもあるが、それがクルアーンに記された「イスラームの正しい姿」だったからだ。
神政国家イランの誕生を目の当たりにしたムスリムのなかに、部族の長が王を名乗って石油の富を独占し、カーバ神殿を守護するサウディアラビアの現状に不満を持つ者が現われた。そもそもムハンマドはアラビア半島の伝統的な部族支配を批判してイスラームの共同体ウンマを唱えたのだから、「保守的なイスラーム(ワッハーブ派)」とされるサウジ王家(サウード家)はアッラーの教えに反しているのだ。
日本はもちろん欧米諸国も、“イスラームの守護者”を名乗るサウディアラビアで「イスラム原理主義」の反乱が起きたことが理解できなかった。18世紀のイスラーム復興運動であるワッハーブ派を保護し、その権威によってアラブの盟主になったサウード家は、欧米では「イスラム原理主義」と見なされていたからだ。
だがサウード家は、クルアーンを原理主義的に解釈すれば自分たちが“反イスラーム”にならざるを得ないことがわかっていた。イラン革命の衝撃によって、知られてはならない秘密が表に出てしまったのだ。
サウード家は、海外で活動するイスラーム過激派を支援することで自らへの批判をかわそうとした。これが事態をさらに混乱させることになる。