仏教は、インド(ネパール)の王子として生まれたゴータマ・シッダールタ(釈迦)を開祖とする。生没年には諸説あるが、釈迦は紀元前7世紀から紀元前5世紀のひとで、入滅後に弟子たちがその言葉を記録したのが仏典だ。
仏教はユダヤ教やキリスト教、イスラームのように聖典を定めなかったため、後世の解釈によって仏典の数が膨大に膨れ上がっていった。その結果、なにがほんとうの釈迦の言葉で、どれが創作なのかがまったくわからなくなってしまった。
オリジナルにもっとも近い最古の仏典は、釈迦の言葉をパーリ語に翻訳したものと考えられている。パーリ語の仏典は上座部仏教(小乗仏教)として、スリランカやタイ、ミャンマーなどに伝わった(南伝仏教)。それに対してサンスクリット語の仏典は、釈迦の入滅から5~600年後の紀元前後に成立した。これが大乗仏教で、ヒンドゥー教のバラモンが仏教に改宗し、厳しい修行を旨とする小乗仏教を大衆化したものだ(輪廻転生はヒンドゥーの思想で、釈迦は生まれ変わりを否定した)。三蔵法師などによって中国に伝えられ、漢字へと翻訳されたのはこの大乗仏教(北伝仏教)で、その中国語訳が6世紀に持ち込まれ、当時の日本人に理解しやすいように空海や最澄らによって翻案・解説されたものが日本の仏教だ。
このことは現在では仏教史の常識になっているが、これは敬虔な仏教徒にとってきわめて不都合な真実だ。サンスクリット語の仏典がバラモン(ヒンドゥー教の司祭)による創作だとしたら、それを中国語から日本語へと翻訳・翻案した日本の仏教をいくら学んでも「ほんとうの釈迦の教え」にたどり着くことはできない。こうしてオウム信者たちは、パーリ語を学び、上座部仏教の経典を集め、ミャンマーやスリランカの高僧に教えを乞うた。
いったん“仏教理解の最先端”を体験した者には、日本の仏教はデタラメそのものでしかない。出家した僧侶が妻帯・肉食・飲酒し、寺を子どもに世襲させるなどいうことは、小乗仏教はもちろん大乗仏教でもあり得ない。すなわち、日本の仏教そのものが「破戒」なのだ。
仏教を「原理的に」解釈するならば、ここまでは反論の余地はない。オウム真理教事件のときに日本の仏教界は一様に押し黙っていたが、それはカルト教団といっしょにされることを恐れたからではなく、オウム信者と論争すれば彼らの方が宗教的に正しいことが誰の目にも明らかになってしまうからだ。
アラブの国々が抱えるきわめて重大な矛盾
仏教とオウム真理教の関係は、イスラームとISISの関係と同形になっている。ほとんどの仏教徒はオウム真理教を忌避するが、それが仏教系カルト団体であることは否定できない。同様にISISも、主流派からどれほど批判されてもイスラーム系カルトであることは間違いない。
ここでイスラームについての詳しい解説をする余裕はないが、そのいちばんの特徴は政教一致にある。キリスト教は、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に」という聖書の言葉にあるように、世俗の権力(ローマ帝国)による現世の支配を容認する。ヨーロッパでは王(現世)と教皇(来世)の二重権力が常態で、教会の権威が揺らぐとともに王権も衰退し、「民族」と「国家」を一体化させる国民国家の登場を可能にした。
それに対してムハンマド(マホメット)はウンマというムスリム共同体を構想し、宗教とは別の世俗の権力を認めなかった。そのためクルアーン(コーラン)には、アッラーと信者との契約だけでなく、共同体の運営や信者の生活に関するありとあらゆる規則が書いてある。
ローマ帝国はキリスト教を国教としたが、そこではローマ教皇の定める神の法とは別に、民法や商法の元になったローマ法典(ユスティニアヌス法典)が編纂された。ところが政教一致のイスラームでは、メッカ巡礼やラマダーン(断食)などの宗教的儀礼だけでなく、結婚・離婚や遺産相続・扶養義務などの民法、商取引や契約、借金や返済方法などの商法、さらには薬の飲み方、香料の使い方、挨拶の仕方、はては食事のあとの爪楊枝の使い方、トイレの作法までクルアーンに定められているのだ(井筒俊彦『イスラーム文化』)。「キリスト教は宗教だが、イスラームは宗教を越えた文明の体系だ」といわれる所以だ。