こうした状況に置かれた東京電力が会社を存続させようとすれば、賠償請求を減額し、廃炉にかかるコストを引き下げるしかない。その結果、東京電力への不満が高まり道徳的責任を問われる悪循環にはまっている。
客観的に考えれば、賠償はルールに則って行なえばいいだけだから、東京電力が主体となる必要はなく、損害保険会社などに事務作業をアウトソースすることもできる。賠償金は国(原子力損害賠償支援機構)が支払い、合意できないものは裁判所やADR(裁判外紛争解決手続)が引き継いで、判決や決定を新たなルールに加えていけばいいのだ。賠償から道徳的責任を切り離してしまった方が、東京電力だけでなく請求者の負担を軽減することにもなるだろう。
廃炉作業は一銭の利益も生まないから、これを私企業に任せてしまえばコストを抑えようとするのは当然のことだ。その結果、粗悪なフランジ接合のタンクをつくって汚染水を流出させたり、作業員の人件費を抑制しようとして労働環境が劣悪なものになったりする弊害が目に余るようになった。こうした事態を避けるには廃炉作業を営利事業から切り離し、国の直轄事業(公共事業)にして必要なコストを税(もしくは電気料金)として徴収するしかないだろう。
だがこうした合理的な改善策は、東京電力の法的責任が全うされたことが条件となるため、現状ではすべて実現不可能だ。その結果、被災者や現場作業員にしわ寄せがいくという理不尽な事態が常態化している。
原発事故の責任をあいまいにしておくことは、政治家や行政、経済界や電力会社など、関係者のすべてにとって都合のいい方法だった。ところが事故から3年たって賠償や除染、廃炉にかかるコストの全体像が明らかになってくると、もはやこの矛盾をとりつくろうことが難しくなってきた。自民党政権が原発再稼動に邁進するのも、その理由のひとつは東電の経営が逼迫し賠償や廃炉作業に支障を来たすのを避けるためだろう。
底知れぬ無責任
とはいえ、ここで私は、東京電力を破綻処理して責任問題に決着をつけるべきだ、といいたいわけではない。現在では東京電力の主要株主は国で、電力債も大半は償還され資金支援も国(支援機構)が行なっている。いま東電を破綻させても責任を取るべきひとはどこにもおらず、国を通じて国民が損失を負うことになるだけだ。株主や債権者の責任を問う機会は失われ、もはや二度と戻ってはこない。
国民が、福島原発事故の責任問題が決着していないと感じるのは、本来、責任を取るべき者を免責してしまったがために、責任をめぐる公の議論ができなくなり問題を先送りするほかなくなったからだ。だがこれは、原子力ムラの陰謀というような話ではない。
歴史家の半藤一利は『昭和史』(平凡社)の最後で、国を破滅に導く愚かな戦争へと突き進んでいった歴史を振り返り、日本人の特徴として、抽象的な観念論を好み具体的・理性的な方法論をまったく検討しないことを挙げている。三国同盟を締結したのはドイツが勝つと信じたからで、フランス領インドシナに進駐しても米国による石油禁輸はないと楽観していた。敗戦が決定的になったあとは中立条約を結ぶソ連に米英との仲介を依頼し、降伏を先延ばしにして広島と長崎に原爆と落とされたあげく、ソ連は満州に攻め込み多数の将兵をシベリアに抑留した。
日本人のもうひとつの特徴は、多くの犠牲者を出してすべてが空理空論の類だったことが明らかになったあとも、誰も責任ととらず、誰の責任も追及しようとしないことだ。これを半藤は「底知れぬ無責任」と述べる。
原発では「絶対安全」が金科玉条とされ、想定を超える地震や津波は起きるはずのないものとされてきた。そして事故が現実のものとなると、責任をとるべき者はどこにもいなくなってしまう。
目先の課題にとらわれて大局を見誤り、なすすべもなく全体状況が悪化していくというのは、日本の社会がこれまでずっと繰り返してきたことだ。原発事故でも同じ見飽きた光景が再現されているのだと考えれば、そこになにひとつ驚くべきことはない――けっきょくこれが、私たちの社会なのだ。