福島原発事故から3年を経て、「責任」についてあらためて考える

有限責任すら負わない無限責任

福島第一原発の事故をめぐっては、政府、国会、民間の事故調査委員会による大部の調査結果が公表されている。だが“原発ムラ”と呼ばれる利益集団とは別に、原発を管理・運営していた東京電力には法律上、事故の責任をとらなければならない当事者がいる。それが株主と債権者だ。

資本主義のルールでは、(株式)会社の法律上の所有者は株主であり、事業から生じた経済的損失は株主が出資額を上限とした有限責任によって負担する。会社の損失が株主の出資額を上回る場合は、債権者が保有する債権額を上限として損失を負う。債権にはさまざまな種類があるが、大口の債権者は融資をしている銀行と社債(電力債)保有者だ。

原発事故は巨大災害で賠償や廃炉に莫大な費用がかかるから、1号機から3号機が次々とメルトダウンした時点で東京電力は実質的な債務超過に陥った。だとすれば、まず東京電力の株主が責任をとり、ついでデフォルト(債務不履行)によって債権者が責任を負うべきだった。もちろんこれは「原発事故を起こした東京電力はつぶしてしまえ」ということではなく、デフォルトを起こして株式市場から退出しても(日本航空のように)国家管理の下で法人として存続することはじゅうぶん可能だ。

無から有を生み出すことはできないのだから、原発事故の収束に必要な巨額のコストは、(電力料金を引き上げるか、税を投入するのかは別として)最終的には国民が負担するほかはない。国民に負担を求めるというのは、原子力という“安価な”エネルギーを享受してきた責任を問うことでもあるのだろうが、そのためにはより直接的な当事者である株主と債権者が自らの責任を果たす必要がある。

だが事故当時の民主党も、その後の自民党も、所轄官庁である経済産業省も、資本主義の原則を無視して株主と債権者を免責してしまった。原子力損害賠償法では、事故を起こした原子力事業者は過失の有無にかかわらず無制限の賠償責任があると定められているが、現実には責任を負うべき者は有限責任すらとっていない。これは福島原発事故の責任を考える際の大きな矛盾だが、この3年間ずっと放置されてきた。

もちろん事故直後に東京電力を破綻処理した場合、その後の廃炉作業や電力の安定供給、賠償業務に影響した可能性はあるから、この判断が間違っていたと一方的に決めつけることはできない。しかしその代償として、「誰がどのようにコストを負担するのか」というきわめて重要な問題を公の場で冷静に議論することができなくなってしまったのだ。

限界に達した問題先送り

原発事故の処理スキームというのは、かんたんにいうと、東京電力という法人が責任を負っていることにして、電力各社に奉加帳方式で経済的負担を求め、国費の投入や電力料金の引き上げを極力避けつつ問題を先送りするというものだ。

東京電力は実質債務超過で、円安による原料費の増大で赤字に陥っても電力料金を安易に引き上げることは認められず、事故処理の費用はリストラや優先株の売却によって賄うことになっている。除染費用や中間貯蔵施設の建設費などを含めれば原発事故の処理コストはすでに10兆円を超えているとされ、一企業のリストラだけで捻出できるはずはないのは明らかだ。

IMG_6460
4号機のプールから使用済み核燃料を取り出す/写真提供Yahoo! News