こうした状況をまとめると、現状はよくもないが思っていたほどヒドくもない、ということになるだろう。事故直後の危機的状況を思えば、自衛隊や消防隊が決死の放水を行なった場所を私のような門外漢が見学できるようになっただけでも驚くべきことだ。廃炉作業や汚染水対策は批判的に報じられることが多いが、被ばくの危険にさらされながら収束作業に従事している多くの作業員の努力を正当に評価することを忘れてはならない。
それを最初に述べたうえで、ここでは原発事故の責任問題について再論したい。
法的責任がなければ道徳的責任もない
責任というのは曖昧な概念だが、大きく法的責任、政治的責任、道徳的責任に分けられる(形而上的責任や人類史的責任を問題にするひともいる)。
道徳的責任では対立する二者を正義と悪に分け、正義の立場から悪が断罪される。このときひとはつねに自分を正義の立場に置こうとする――これは戦争責任や差別問題をめぐる議論を見れば明らかだろう。正義と悪の二分法はわかりやすく、正義を振りかざすのは気分がいいが、悪を成敗すれば正義が回復するというのはマンガや時代劇の中でしか通用しないお伽噺だ。
政治的責任を担うのは政治家(リーダー)で、「政治は結果責任」とされるから、道徳的責任よりその意味は限定されている。民主政では政治家の選択は有権者によって審判され、誤った選択は落選という責任を負う。これは原理的にはそのとおりだが、そうなると選挙に勝てば失政も免責される、ということになりかねない。国会で多数を占めている以上、原発再稼動や原発輸出の推進を「国民の意思」に反していると決めつけることはできない。
定義自体があいまいでその扱いがやっかいな政治的責任や道義的責任に比べて、法的責任はずっと明快だ。あらかじめ当事者が合意したルール(法律)があり、そのルールが破られたことで一方が不利益を被ると金銭賠償などの責務が発生する。誰にどのような責任があるかは裁判などの司法制度によって判断され、共同体(国家)の構成員はその判断に従わなくてはならない――これが近代社会の基本ルールだ。
責任問題を考えるときの原則は、「道徳的責任の追及は慎重であるべきだ」というものだ。道徳的責任は多数派の都合で誰にでも押しつけることができるから、その追及にはおうおうにして私刑(リンチ)のようなグロテスクなものになってしまう。
「法的責任がなければ道徳的責任もない」というのは、魔女狩りのような不幸な出来事を防ぐために生まれた近代社会の知恵だ。そしてこれは逆に、「法的責任は徹底的に追及されるべきだ」ということでもある。
だが日本の社会ではこうした近代のルールがほとんど理解されず、「法的責任を曖昧にしたまま道徳的責任を追及する」という事態がしばしば起きている。原発事故をめぐる問題もその典型だ。