8月の風物詩といえばお盆と夏祭りと決まっていたのですが、いまや靖国問題と歴史認識がそれにとって変わろうとしています。これはもちろん、中国や韓国からの強い批判があるからですが、「戦争責任」が問われる理由はそれだけではありません。戦後70年ちかくたち世代がほぼ交代しても、敗戦と占領は戦後日本のアイデンティティの核心にあるのです。
1945年9月11日、東京・世田谷の住宅地に一発の銃声が響きました。そこは太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣、東条英機の自宅で、東条は占領軍が逮捕に来たこと知って、左胸にピストルを当てて引金を引いたのです。
米兵が踏み込んだとき、応接間の椅子で倒れていた東条にまだ息はありました。銃弾は胸を撃ち抜いていましたが、急所は外れていたのです。
東条は、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という「戦陣訓」を示達した当人で、その“軍人の鑑”が自決に失敗して敵の囚人となったことに日本じゅうが愕然としました。戦後日本は、この“究極のモラルハザード”から出発したのです。
勝てるはずのないアメリカと戦争したあげく、広島と長崎に原爆を落とされ、東京などの都市はすべて焼け野原になり、兵士・一般市民を含め300万人が犠牲となる無残な敗戦を喫したばかりか、てのひらを返したように「民主主義」を賛美する政治家や官僚、権力者への国民の反応は、怒りというより冷笑にちかいものでした。このとき日本は、国家の信任を完全に失ったのです。
その後の日本の政治は、米国の核の傘の下、国民に経済成長の果実をばらまきながら、戦争責任の問題を棚上げするという低姿勢で現実的なものでした。戦争体験者が有権者の過半を占めるなかで戦前のような権威を振りかざせば、国民から総すかんを食うことは明らかだったからです。
その後時代は移り変わり、“奇跡”と呼ばれた経済成長も終わりました。いまでは政府の役割は、年金や医療保険制度などの負の遺産を国民に分配することです。戦後賠償によってつながっていた近隣諸国との関係も、アジアの成長と賠償の終了によって大きく変わり、中国や韓国は日本に対し対等の立場で謝罪と反省を求めるようになりました。それに呼応するように、グロテスクなヘイトスピーチを叫ぶ集団が日本各地に現われるようになったのです。
国家としてのアイデンティティを取り戻すもっとも安直な方法は、大東亜戦争を“民族自決の聖戦”として再定義することですが、これでは国際社会で生きていけません。かといって戦前を全否定するだけでは、中韓からの批判にただ頭を垂れて押し黙ることしかできません。
このようにして私たちは、ふたたび1945年の暑い夏の日に引き戻されることになりました。どれほど目を背けても、「戦争責任」は戦後日本の歴史に亡霊のようにまとわりついてくるのです。
仮に憲法を改正したとしても、国家の威信を取り戻すことはできません。“居心地の悪い夏”は、来年も、その次の年も、これからずっと続くことになるでしょう。
『週刊プレイボーイ』2013年8月19日発売号
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