オランダがつくりあげたきわめて効率的な社会
1970年代までのオランダは、キリスト教と民主制(デモクラシー)の価値を奉じる保守政党が長期政権を握り、エリート官僚が国家を運営する中央集権的な「福祉国家」だった。保守派は社会の基盤として「家族」を重んじ、教会を中心とする地域の自治を尊重し、保守的な社会制度を守るために失業者(家族を支える男性の働き手)に手厚い所得保障を行なった。
経営者団体や労働組合も社会を構成する重要な一員とされ、労使の代表で構成される政治団体が政策の決定に大きく関与した。この時期のオランダ政治は、さまざまな業界団体や利害関係者が集まって全員が納得する合意を探る、日本とまったく同じやり方で運営されていたのだ。
ところが1980年代に入ると、第二次石油危機以降の不況と財政危機によって、従来の寛容な福祉モデルが機能しないことが明らかになってくる。とりわけ問題にされたのが失業給付で、業績の悪化した企業は国家の所得保障を前提に労働者を解雇し、それに応じて労働組合が給付基準をゆるめるよう政治圧力をかけたために、人口約1600万人の国に100万人ちかい失業保険の受給者がいる事態に陥った。
社会制度の機能不全が誰の目にも明らかになったことで、90年代から大胆な改革の試みが始まった。76年ぶりに保守派を権力の座から追いやって「政権交代」を実現した労働党は、新自由主義的な政策を積極的に取り入れ、時短やパートタイム労働の促進を通じて仕事を分かち合うワークシェアリングや、就労と育児・介護・勉学を両立させるワーク・ライフ・バランスなどの斬新な雇用・福祉政策を導入した。
一連の社会保障制度改革の目的は、これまで「労働力」とは見なされなかった女性や高齢者を労働市場に再参入させることだった。
96年の「労働時間差別禁止法」では、労働時間の違いに基づく労働者間の差別が禁止された(パートタイム労働が「短時間正社員」になった)。
00年の「労働時間調整法」では、労働者に労働時間の短縮・延長を求める権利が認められた(経営者は、十分な理由なく労働時間の変更申請を拒否できない)。
さらに01年の「労働とケアに関する法律」では、出産・育児休暇や介護休暇の制度が大幅に拡充された(産婦ばかりでなくパートナーにも出産時休暇が認められ、賃金の100%が給付される)。
このようにして、学業などの個人的事情や、子育てや介護などの家庭の事情にかかわらず、どんな条件でも働くことが可能な「パートタイム社会」が実現したのだ。
ワークシェアリングやワーク・ライフ・バランスは日本でも広く喧伝されたが、その一方で、オランダの新しい公的扶助制度が「就労義務の徹底」をうたっていることはほとんど知られていない。
04年に施行された「雇用・生活保護法」では、18歳以上65歳未満の受給者は原則として全員が就労義務を課せられ、「切迫した事情」を立証できないかぎりこの義務は免除されない。受給者は、職業紹介所から斡旋された仕事が「一般的に受け入れられている労働」であるかぎり、これを拒むことができないのだ(オランダでは売春が合法化されているが、これは“一般的に受け入れられている”仕事ではないので強制されることはない)。オランダは「福祉国家」と思われているが、日本の生活保護や失業保険の給付基準と比べて、受給者に対してはるかに厳しい態度をとっている。
90年代から始まった先進的な改革によって、オランダはきわめて効率的な社会をつくりあげることに成功した。オランダの就業者1人あたりの労働時間は年1392時間で、労働生産性(就業者1人当たりの単位労働時間のGDP)は53.4ドル。それに対して日本の場合、平均労働時間は1785時間で労働生産性はわずか37.2ドルしかない。日本人はオランダ人よりもはるかに長く働いているが、その労働は7割程度の価値しか生み出していないのだ。
こうして、生活の満足度と労働生産性の向上を両立させたオランダモデルは先進国の目標とされるようになった。だがその結果、オランダ社会を大きな黒い影が覆うことになる。それが「移民問題」だ。