藤原章生氏の『資本主義の「終わりの始まり」』を興味深く読んだので、忘れないうちに感想を書いておきたい。
著者の藤原氏は毎日新聞記者で、ローマ支局長のときにギリシアの混乱を取材した『ギリシャ危機の真実』という優れた現場報告を書いている。本書はその混乱を経て、イタリアやギリシアなど“南のヨーロッパ”で「資本主義はもう終わりだ」という思想が生まれつつあることを取材したものだ。
物語は、2012年1月に交通事故で急逝したギリシアを代表する映画監督、テオ・アンゲロプロスが遺した謎めいた言葉から始まる。
「いまは未来が見えない。そして誰もが大きな待合室でチェスをしながら、扉が開くのを待っている。中には扉を壊そうとする者もあるがすぐには開かない――。ここ地中海圏が、扉を最初に押し開こうとするだろう」
アンゲロプロスが死んで、この“予言”の真意を直接訊くことはできなくなってしまった。そこで著者は、イタリアやギリシアの哲学者や歴史学者、社会運動家などを訪ね歩き、「扉が開かれる」とはどういうことかを知ろうとする。この導入部は魅力的だ。
書名からわかるように、「扉」とは資本主義の隠喩で、「扉が開かれる」とき、グローバル資本主義ではない新しい経済システムが誕生することが示唆されている。だが最初に断わっておくが、本書に経済学的な議論を期待するひとはがっかりするだろう。著者はジャーナリストであり、登場する碩学たちのなかにも経済学者はわずかしかいない。「資本主義の次にくるもの」は最後までわからないままだ。
では、本書の魅力はどこにあるのか? それを説明するには、ヨーロッパ社会の思想状況について、私の理解をかんたんに述べておかなくてはならない。
議論の前提として、いまでは北欧の福祉国家はすべて“ネオリベ化”してしまった。これは80年代の不況と財政危機を受けて、90年代以降、グローバル化に適応した社会ステムを構築する改革が続いたためで、スウェーデンやデンマーク、オランダなどは現在では「新自由主義型福祉国家」と呼ばれている。
これは私の個人的な見解ではなく、ヨーロッパの政治や社会を研究する専門家のあいだでは常識になっていることだ。この「常識」がマスメディアでほとんど紹介されないのは、「理想の福祉国家」がネオリベ国家になってしまった現実を認めたくないひとや、その事実が広く知られることで既得権を奪われるひとがいるからだろう(これについては別にエントリーを立てる)。
誰もが満足する完璧な社会制度がないことは当然だが、これも事実として、さまざまな国際比較調査で“ネオリベ福祉国家”のパフォーマンスがきわめて高いことが実証されている。
オランダはワーク・ライフ・バランスや男女共同参画社会で新たな働き方のモデルをつくり、年間労働時間は日本の8割以下で、労働者一人あたりの生産性は3割も高い。人口900万人のスウェーデンからはイケアやH&Mなどの世界的企業が育ち、国政選挙の投票率は85%にも達する。デンマークは消費税率25%の高負担の国だが、イギリス、レスター大学の世界幸福度調査(2006年)では「世界一幸福な国」に選ばれている。
ネオリベ化した“北のヨーロッパ”は、効率的で国際競争力が高く、国民の政治・社会への参加意欲も、生活に対する満足度や幸福度も高い。もちろん幸福は主観的なものだが、“北のヨーロッパ”のひとびとが、「自分たちはそこそこうまくやっている」と考えていることは間違いない。
それに対して“南のヨーロッパ”には絶望しかない。
ギリシアでは失業率が20パーセント(若者の失業率は57%!)を超え、公務員の給与は3割削減され、財政危機が発覚した2009年末からわずか2年でギリシア国内の銀行預金は20パーセント(約5兆円)も減ってしまった(その大半はドイツやスイスなどの金融機関に流出した)。
お金ばかりでなく、ひとも逃げ出しはじめた。移民の急増で、オーストラリア、メルボルンのギリシア人コミュニティの人口は15万人を超え、アテネ、テッサロニキに次ぐ“ギリシア第三の都市”になろうとしている。
ヨーロッパ(EU)はユーロという共通通貨を持ち、ECB(ヨーロッパ中央銀行)がユーロ圏の金融機関を支え、ユーロ共同債の導入も議論されている。金融や財政が一体化していくなかで、域内に異なる社会制度が並存するのはあまりにも非現実的だ。だったら、より劣った社会制度を抱える国々は、優れたシステムに向けて政治や社会を「改革」していくべきだ……。これがヨーロッパの政治・官僚エリートや知識層の常識になっている。
ネオリベ化した“北のヨーロッパ”から見れば、“南のヨーロッパ”は汚職が蔓延し、政府は肥大化し、ひとびとは働くよりも福祉をあてにする、きわめて効率の悪い社会だ。だからこそ援助する側からの「改革圧力」はきわめて強力で、財政危機で自立不可能になった「南」の政府にはほとんど選択の余地がない。このことは、政治家を排除し経済学者と実務家だけで構成されたモンティ政権がイタリアに成立し、緊縮財政と規制緩和を進めたことからも明らかだろう。
しかしこうした“北のネオリベ”からの外圧は、南のひとびとにとっては理不尽以外のなにものでもない。家族の絆こそが生きる意味だと考える彼らにとって、「自立」と「自律」の原則によって家族が解体し、“近代的個人”の集団になってしまったスウェーデンは奇妙奇天烈な社会でしかない。“北のヨーロッパ”のような社会になることは、彼らの生き方(実存)を全否定されることなのだ。
こうした背景を頭に入れておくと、この本でイタリアやギリシアの思想家・社会運動家たちが「グローバリズム」に激しく反発する言葉がリアリティを持ってくる。彼らにとっていま起きていることは、「北」と「南」のどちらの社会制度が経済的に効率的か、ということではなく、生きるということの価値観をめぐる対立なのだ。
もっとも藤原氏が困惑するように、彼らのなかに「ポスト・グローバリズム」の明確なイメージがあるわけではない。「南の思想」を説くイタリアの思想家フランコ・カッサーノにしても、「強欲経済ではなくバランスが必要だ」とか、「われわれだけが地球の主ではない」とか、言い古された言葉を並べるだけだ。それ以外にも、スローライフ、農業回帰、地産地消、コミュニティの復権などなど、今では中学生ですら口にする“グローバリズム批判”が次々と出てくるばかりだ。
この本を読むと、アンチグローバリズムもまたグローバル化していることがよくわかる。日本でもイタリアでも、あるいはアメリカで中南米でも、“グローバリズム”を価値観への脅威だと感じるひとたちはまったく同じ呪詛の言葉を叫んでいる。
しかしこれは、考えてみれば当たり前のことだ。グローバリゼーションが普遍的な現象であるならば、それに対する“アンチ”もまた普遍的なものにならざるを得ない。だからこそ、真っ先に“グローバリズム”の洗礼を受け、“ネオリベ”からの外圧に晒されている“南のヨーロッパ”の思想家たちの言葉が世界じゅうに伝播し、そして陳腐化していく――。「アンチ・グローバリズム」の実態を描いたことで、前作につづき、本書も優れたジャーナリズムの仕事になっている(著者の意図とはちがうかもしれないが)。
「扉」は永久に開かれることはないだろう。私たちはこれからも、「待合室」のなかでなんとか生きていくほかはない。だが、チェスをするかどうかはあなたの選択に任されている――。