著者の増原義剛氏は元大蔵官僚で、東海財務局長で退官した後、2000年から09年まで自民党の衆議院議員を務め、現在は広島経済大学で教鞭をとっている。代議士時代は、内閣府副大臣や財務金融委員会理事などのポストにつき、自民党金融調査会で改正資金業法の立法に携わった。『「弱者」はなぜ救われないのか』は、その経験をもとに、日本の政治がいかにポピュリズムに翻弄されているかを世に問うたものだ。
とはいえ、本書を手に取った読者は、その穏当な表現に落胆するかもしれない。著者の経歴からすればスキャンダラスな告発本になるはずもなく、ポピュリズムを煽ったメディアや政治家が名指しで批判されているわけでもない。しかし政権の中枢にいた元政治家が、自らが立法に携わった法律を全否定するというのは、やはり“前代未聞”なことなのだ。
著者は自らの政治家時代を、次のように自己批判する。
改正当時の経緯を正直に申し上げると、改正貸金業法とはそのような(多重債務者保護とノンバンクの淘汰・撤退という規制強化の副作用の)比較衡量がほとんどなされずに導入が決められた法律であった。むしろ、規制の弊害を指摘することが社会的・政治的に許されない、ある種異常な雰囲気のなかで決められた法律であった。政治と政治家の限界があらわれた法律であったとも言える。
2003年6月、大阪・八尾市のJR関西線の踏切で、同市内の主婦(69歳)と清掃作業員の夫(61歳)、主婦の兄(81歳)の3人が電車にはねられて死亡した。現場から主婦の遺書が見つかり、「荷物の整理をしながらも死にたくないという思いで涙が止まりません」などと記してあったことから、警察は借金の取立てを苦にした自殺と判断した。主婦はヤミ金から1万5000円を借り、その利子が雪だるま式に増えて、保証人となった夫や兄にまで取立てが及んだことから心中に追い込まれたのだ。
2006年には、取立ての電話録音がテレビなどで繰り返し放映された。「話を聞けよ! ジジイ!」「おら! この野郎! お前らなんて潰すのなんともねえんだよ!」「金融監督庁でも何でも行ってこい! 野球の監督でも連れてこい! バカタレッ!」というもので、多重債務者の相談業務を行なっていた弁護士たちが、消費者金融大手のアイフルを相手どって損害賠償請求訴訟を起こした。被害者弁護団は、アイフル社員か、もしくは依頼された関係者が違法な取立て(恐喝)を行なったと主張したのだ。
この訴訟も当時、大きく報道され、一審(熊本地裁)は「(電話をかけたのがアイフル)社員とは断定できないが依頼された人物が電話をかけた可能性は残る」として、損害賠償30万円、弁護士費用5万円の支払をアイフルに命じた。しかし高裁では、それがアイフルの関係者から依頼されたものとは確定できないとの理由で一審判決が破棄され、2009年5月には最高裁で上告が不受理とされてアイフルの無実が確定している。当時、マスメディアはこぞってこの事件を取り上げ、消費者金融バッシングを行なっていたが、それはすべて虚報だったのだ。
著者も述べるように、冷静になってみれば、恐喝まがいの取立てで問題になったのはすべてヤミ金業者ばかりで、「脅迫テープ」に見られるような極端な取立ては消費者金融では見られなかった。しかし、消費者金融の創業者が長者番付に名を連ねていることや、派手なテレビCMへの反発もあって、いつのまにかヤミ金と消費者金融を同一視することが当然とされるようになった。
こうしたメディアの論調に便乗するように、自民党の金融調査会では、「貸すも親切、貸さぬも親切」が合言葉となって、消費者金融に対する規制強化が声高に主張されはじめた。ヤミ金と消費者金融は別物であるという“正論”など通る余地はなく、上限金利の引き下げに加え、借り手の年収に応じて融資額を制限する「総量規制」が議論されるようになる。
ところで著者は、出資法の上限金利を引き下げたことによって貸金業者の廃業・撤退が促された一方で、大手業者による貸し込みが激しくなったことを指摘する。考えてみればこれは当たり前で、生き残った体力のある業者が低い金利でこれまでと同じ利益を維持しようとすれば、融資額を増やすほかはないのだ。
政治家が上限金利を引き下げたことで大手業者の寡占と貸し込みがもたらされ、その弊害に驚いてさらなる規制に乗り出す。マッチポンプとはこのことだ。
そもそも近代社会では、私的所有権や私的自治とならんで契約自由が原則で、公序良俗に反しないかぎり当事者同士でどのような契約をするのも自由だ。所得に応じて融資額の上限を決める「総量規制」はきわめて特殊な政策で、先進国では例がない。
金融庁は各国の貸金業制度を調査し、アメリカ、ドイツ、フランスでは上限金利は設定されているものの総量規制はなく、イギリスにいたっては上限金利規制すらないことを把握していた。イギリスでも過去に上限金利を導入する動きがあったが、消費者保護団体までもが、「(優良な借り手が)短期資金の融資が受けられなくなる恐れがある」と反対した。
日弁連は、高い金利で融資することが自殺の原因になっていると主張したが、だとしたらイギリスの自殺率(10万人あたり6.4人)が日本の自殺率(同25.8人)の4分の1しかないという事実を説明できない。こうした客観的なデータはすべて不都合なものとして闇に葬られ、マスメディアでも一切報道されず、消費者金融を敵役とする勧善懲悪の図式がもてはやされた。
2006年に、全国信用情報センターは、大手消費者金融などの貸金利用者は約1200万人で、そのうち5社以上の消費者金融から融資を受ける「多重債務者」が230万人にのぼると発表した。だがこのデータは、多重債務者問題の深刻さとともに、消費者金融を利用する1200万人のうちおよそ1000万人(83%)は優良な借り手であることをも示している。彼らは自らの意思で消費者金融から融資を受け、それを期限までに返済しているのだから、その自由な商行為に国家権力が介入する理由はどこにもない。
総量規制が完全施行される半年前の2009年12月に日本貸金業協会の行なった調査では、利用者の5割が、「規制」対象となる年収の3分の1以上の借入者に該当していることが明らかになった。所得別では、年収300万円以下では利用者の73%、301万~500万円では43%、501万円~700万円では34%、701万円以上では29%が借入規制の対象になってしまう。
このように総量規制は、貧しいひとたちを合法的な無担保・無保証融資から締め出し、優良な利用者を法の保護のないヤミ金へと追い立ててしまうのだ。
1200万人のうち1000万人が正常な借り手だとすれば、総量規制はそのうち500万人の善良な利用者の犠牲のうえに成立する。著者が繰り返し述べるように、このような法律が正当化できるはずはない。
2006年1月、最高裁は「シティズ判決」で、それまで「グレーゾーン金利」での貸付を認めていた貸金業規正法の「見なし弁済規定」を実質的に否定した。これにより、すでに完済し終わっているケースも含めて過払い金返還請求が可能になり、弁護士や司法書士の「過払い金バブル」が起きたことはよく知られている。弁護士のなかには過払い金返還請求で巨額の利益をあげ、税務署に所得隠しや申告漏れを指摘される例も相次いだ。最高裁判決は弁護士に“特需”をもたらし、同時に司法制度の信用を失墜させたことになる。
著者のいうように、改正貸金業法の総量規制だけでなく、「借地借家法」や「モラトリアム法(金融円滑化法)」など、弱者保護を名目に導入され、市場の機能を破壊し、法の正義を歪め、結果的に弱者をより苦しめることになった“欠陥法律”はほかにもある。だがこうした法律は、「弱者の仮面をかぶった既得権者」に利益をもたらし、わかりやすい勧善懲悪の話を求めるマスメディアがもてはやすから、改正や廃止はきわめて困難だ。
自らの政治家時代を振り返って、著者は日本の政治が「サイレントマジョリティ(声なき多数)」のためのものではなく、「ノイジーマイノリティ(声の大きな少数の既得権者)」によって動かされていることを慨嘆する。
リベラルなマスメディアは小泉政権(劇場型政治)や橋下・大阪維新の会(ハシズム)をポピュリズムと全否定するが、自らが市場を破壊し、法を歪め、社会的弱者により大きな困難を与えるポピュリストであることにはまったく自覚がない。本書を一読すれば、ポピュリストがポピュリストを批判する日本の政治の寒々しい光景が見えてくるだろう。