公務員という「安全な生贄」 週刊プレイボーイ連載(64)

先週、大津市のいじめ自殺事件の話を書きましたが、こんどは市の教育長が男子大学生(19)にハンマーで頭を殴られ、頭蓋底骨折の大怪我を負う事件が起きました。男子学生は、「テレビやインターネットで報道を見て、教育長が真実を隠していると思い、許せなかった。殺してやろうと思った」と供述しているといいます。

「正義」に反する出来事があると、私たちは無意識のうちに加害者の処罰を求めます。こうした大衆の怒りはマスメディアが代弁しますが、いじめ自殺は当事者が中学生なので、振り上げた拳をどこに下ろすかが大きな問題になります。

今回の事件では、批判の矛先は、生徒たちへのアンケート結果を無視して調査を打ち切った市教委に向けられました。とりわけ教育長が、自殺した生徒の家庭にも問題があったと示唆する発言をしたことで、「責任を被害者に押し付けている」との批判が殺到し、襲撃の引き金になったと思われます。

公立中学でのいじめ自殺に市の教育長がなんらかの責任を負っていることは間違いないとしても、それではいったいどのようにすればよかったのでしょう。市教委の権限でいじめ自殺の加害者を特定し、処罰すべきだと考えるひとも多いでしょうが、そんなことはマンガかドラマの世界でしかできません。

法治国家では、私的な行為を強制的に調査できるのは警察などの一部の機関だけです。その行為が処罰に値するかどうかは、検察(国)と弁護士が法廷の場でお互いの主張を述べ合って、法に基づいて裁判官が判決を下します。市教委にはこのいずれの権限もなく、独断で“加害者”を決めることなどできるわけがありません。

法治国家の原則は、「疑わしきは被告人の利益に」です。匿名のアンケートに「自殺の練習をしていた」という回答があったとしても、処分を下すためには、アンケートの回答者を特定し、その生徒が伝聞ではなく自ら自殺の練習を目撃したことを確認したうえで、その証言によって“加害者”の生徒が事実を認めることが絶対の条件になります。そうでなければ、生徒の人権に配慮するのが行政官である教育長の正しい態度なのです。

いじめ自殺の調査について釈明するのが教育長ばかりで、それ以外の教育委員(民間人)がいっさい表に出ないことも批判されました。教育委員会制度が形骸化しているのはそのとおりでしょうが、だからといって個々の委員をバッシングすれば問題が解決するわけではありません。大衆が求めているのはスケープゴートであり、民間人(医師や地元企業の経営者)が批判の矢面に立てば仕事や生活が成り立たなくなってしまいます。そうなればもはや誰も教育委員の職を引き受けようとはしないでしょうから、制度を維持するためには、市の職員が“生贄”になるほかはないのです。

今回の事件が後味が悪いのは、マスメディアがそのことをわかったうえで、“安全な生贄”として教育長を叩いていたことです。それが私刑(リンチ)を招いたことで、マスメディアはもはや、生徒や学校だけでなく行政を批判することもできなくなってしまいました。

こうしていじめ自殺の犯人探しはタブーとなり、やがては事件の存在そのものがメディアから抹消されることになるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2012年8月27日発売号
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