素晴らしきベーカムの未来

人種差別が国是に

世界では、10億人を超えるひとたちが1日1ドル(80円)以下で暮らしている。そんなグローバル世界で、「日本国民なら誰でも年間100万円(1日あたりおよそ34ドル)が支給される」ベーカムが実施されたとしよう。このとき世界の貧しいひとたちにとって、日本国籍を取得するか、それが無理なら日本国民となる子どもをできるだけたくさん持つことが、貧困から脱出する魔法の杖になる。

じつはこれは、法律上はものすごく簡単だ。日本の国籍法は血統主義だから、日本国民の父親か母親を持つ子どもは無条件で日本国民になれる。貧しい国の女性たちは、日本人男性との間に子どもをもうけるだけでベーカムの恩恵を受けることができるのだ。

そうなれば、日本人男性との偽装結婚ばかりか、セックスすらも闇市場で売買されるようになるだろう。これは想像するだにおぞましい世界だが、ベーカムの持つとてつもない魅力を考えれば、世界じゅうの貧しい女性たちが貧しい日本人男性に殺到するのは避けられない。

この道徳的退廃を解決する方法は、日本国民の男性と女性のあいだに生まれた子どものみを「日本人」とする純血主義しかない。これによってベーカムの支給範囲は限定できるが、同時に、外国人の父親か母親を持つ子どもは「非日本人」として差別されることになる。もちろん移民が日本国籍を取得することなどまったく不可能になるだろう。

年間100万円(約1万2500ドル)という額は、世界の一人当たりGDPではロシアやブラジルとほぼ同じで上位30%に入る。それをすべての日本国民に“生活最低保障”しようとすれば、人種差別を国是とする「鎖国」以外に道はないのだ。

このようにベーカムはきわめて強力な経済政策で、貧困問題を“最終解決”できるかもしれないが、同時に社会そのものを破壊してしまう。そのもっとも深刻な副作用は、ひとたびベーカムが導入されれば、国民が制度に依存するようになることだ。

ベーカムがなければ生きていけない貧しいひとたちは、既得権を守ってくれる政治家だけを熱狂的に支持し、制度の見直しは絶対に認めないだろう。そして選挙のたびにより“充実した”保障を求めるようになる。

20世紀の生んだ最大の思想家の一人フリードリッヒ・ハイエクは、計画経済によって平等な社会を実現しようとする理想主義を「隷属への道」と批判した。貧困のない世界を目指すベーカムも、その純粋な理想ゆえに、グロテスクな未来へとつづく「隷属への道」となるにちがいない。

『週刊新潮』2012年6月21日号
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