「お前、なにやってるんだ!」
道を歩いていたら、いきなり怒鳴り声が聞こえた。何事かと思って振り返ると、70歳前後のおじいさんがスーツ姿の中年男性に食ってかかっている。
男性は、近道をするために車道を斜めに横切っていた。おじいさんはそれをとがめて、ちゃんと横断歩道を渡れと怒ったのだ。
角を曲がるとスーパーがあって、入口の横が花屋になっている。そこで高齢の男性が、花屋の主人と大声で口論していた。店頭に鉢植えを並べているのだが、それが5センチほど歩道にはみ出している。おじいさんは、それが公道の不法使用だと怒っていたのだ。
このささいな出来事が妙に記憶に残っているのは、その日のランチで隣に座った女性客の会話を耳にしたからだ。
いかにも“奥様”ふうの女性は、最近は近所が高齢者ばかりになって、つき合いが大変だとこぼしていた。それは、次のような話だった。
彼女の住んでいる町内会では、年にいちど、60歳以上の住民に1000円分の商品券を配ることにしている。彼女は近所のとりまとめ役で、自分と母親以外に数世帯分の商品券を預かった。配布先のひとつが、「ちょっとボケた」夫婦だった。
彼女はおばあさんに、「あなたと旦那さんの分です」と説明して2枚の商品券を渡した。ところが数日後、彼女が留守のときにおばあさんが訪ねてきて、「商品券を1枚しかもらっていない」と彼女の母親に文句をいったのだという。
母親は、娘が商品券2枚を持っていったことを知っていたが、ここでいい争っても仕方がないと思って、自分の分の商品券をおばあさんに渡した。
それから数日後、こんどは町内会長が彼女のところにやってきた。おじいさんから、「自分たちは商品券を1枚しかもらってない」と怒鳴り込まれたのだという。その迫力に気おされて、町内会長はとりあえず手元にあった商品券を1枚渡したのだが、詳しい事情を聞きにきたのだ。
「ホントにイヤになっちゃうわ」と、彼女が憤慨するのもよくわかる。“ボケた”夫婦は彼女を悪者にして、しめて4000円分の商品券を手に入れたのだ。
「それでどうしたの?」と、もうひとりが訊く。
彼女の話によると、事情を知った町内会長は、来年から、商品券を受け取ったら必ず受領印を捺してもらうことにしたという。トラブルの再発を避けるには、それがもっとも賢明な方法なのだろう。
「でも、なんだかヘンだと思わない?」彼女がため息をつく。「これじゃあどんどん手間が増えるばかりだわ」
高齢化が進む日本では、2030年には国民の3人に1人が老人(65歳以上)になる。高齢化社会とは、人間関係の軋轢を解消するのにものすごくコストのかかる社会なのかもしれない。
上品な奥様の愚痴を聞きながら、その日の朝の出来事を思い返して、いささか不安な気持ちになったのだ。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.17:『日経ヴェリタス』2012年6月17日号掲載
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