江戸時代の暮らしが知りたければインドのスラムに行けばいい 週刊プレイボーイ連載(55)

「日本はもう経済成長しないのだから、江戸時代のような定常社会に戻ればいい」というひとがいます。市場原理主義の世の中より、近代以前の社会のほうがずっと人間らしい暮らしができるというのです。

「歴史人口学」という新しい歴史学では、宗門改帳などの資料を使って過去の人口動態を研究しています。ひとびとの移動や人口の増減から見ると、江戸の暮らしはいったいどのようなものだったのでしょうか。

歴史学者は、ここで奇妙な現象を発見しました。江戸時代はほとんどの地域で人口が増えているものの、なぜか関東地方と近畿地方だけ人口が減っているのです。この二地域には、江戸と京・大坂という100万都市があります。なぜ地方で増えた人口が、都市で減っているのでしょうか?

それは、当時の都市の暮らしがきわめて劣悪だったからです。

農家では、干拓などによる農地の拡大がないかぎり、長男以外は出稼ぎに出されます。もっとも多かったのが奉公で、14~15歳で家を出て、西陣の織り子になったり、商家の丁稚になって働くのがふつうでした。

奉公人は、商家の屋根裏部屋にすし詰めにされて暮らしていました。こうした環境は感染症(伝染病)にきわめて弱く、天然痘や赤痢がひとたび流行れば甚大な被害は避けられなかったのです。

江戸時代は乳幼児の死亡率こそ高かったものの、農村部では60代まで生きることも珍しくありませんでした。しかし江戸や京・大坂では、10代や20代の若者が栄養失調や伝染病でつぎつぎと死んでいったのです。

江戸時代が「定常社会」なのは、日本の総人口が2600万人前後のままほとんど変わらなかったからです。しかしこれは社会が安定していたためではなく、農村で増えた人口を都市が間引いていたからでした。江戸や京・大坂は、出稼ぎの若者たちを集めては死へと追いやる“アリ地獄”だったのです。

江戸では、地方出身の貧しいひとたちは人足(建設労働者)や物売りになったり、商家の下働きをしていました。さらに食い詰めれば、物乞いや売春でその日の糧を得るしかなくなったことでしょう。

このように考えると、彼らの生活は、インドや東南アジアの貧困層の暮らしにきわめてよく似ています。インドでは、農村で生きていけないひとたちはデリーやムンバイなどの大都市に集まり、スラムで共同生活を送ります。彼らは同郷の者同士で結束を固め、お互いに支えあいながら、必死に生き延びようとするのです。

貧しい国々では、売春が女性にとって生きていくただひとつの方途になることも珍しくありません。こうして、政府(警察)の公認する高級売春宿から非合法の街娼まで巨大な売春産業が生まれますが、これは吉原を頂点とする江戸時代の売春システムと瓜二つです。

貧しい国は、どこもよく似ています。江戸時代は貧しい社会だったから、ひとびとは長屋というスラムで身を寄せ合って暮らすしかありませんでした。

江戸時代の生活を体験するのにタイムマシンはいりません。インドやタイのスラムに行けばいいのです。

参考文献:速水融歴史人口学で見た日本』

後記:インドのスラムについては、ムンバイ(ボンベイ)のスラムで暮らしたオーストラリア人の『シャンタラム』(書評はこちら)、最貧困国のスラムや路上の暮らしについては石井光太絶対貧困』を読むとよくわかります。

 『週刊プレイボーイ』2012年6月17日発売号
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