映画『MY HOUSE』と夢を失った時代

独立国家の話で触れたが、建築家・坂口恭平の『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』について忘れないうちに書いておこう。

『TOKYO 0円ハウス 0円生活』『隅田川のエジソン』で路上生活についての独創的なフィールドワークをした坂口は、本書で彼らを「都市型狩猟採集民」と定義する。これは、私たちがホームレスに抱いているイメージのコペルニクス的転換だ。

坂口は、彼が出会った路上生活者たちを紹介しながら、次のようにいう。

  1. ホームレスは「ホームレス(家のないひとたち)」ではない。彼らは“モバイル住宅”という、都市に最適化したホームを持っている。
  2. 路上生活は、都市における「狩猟採集」という新しい(Alternativeな)ライフスタイルだ。
  3. 路上生活者は貧しくかわいそうなひとたちではない。彼らこそが、肥大化した都市文明のなかでもっともゆたかで人間的な生活を送っている。

私たちは、ダンボールハウスではきびしい冬を越すことができず、いったんホームレスになれば長くは生きられないと思っている。だが坂口は、ダンボールとビニールシートでつくられた家はきわめて快適で、外気を完全に遮断できるから、真冬でもTシャツと毛布だけで過ごせるくらい暖かいのだという。実際、隅田川や荒川、多摩川の河川敷には、10~15年もダンボールハウスで暮らしているひとたちがいる。

私たちはまた、ホームレスになればゴミ箱に捨てられた残飯を漁って生きていくほかはない、と怖れている。たしかに路上生活者は賞味期限切れの食品を食べているが、坂口はこれを「都市の狩猟採集」というライフスタイルだという。

路上生活者のなかには、スーパーや飲食店と“契約”し、ゴミ捨て場を管理する代わりに不要な食材を引き取る者がいる。彼らが大量に食材を持ち帰るから、残飯など漁らなくても、毎日のように豪華な鍋パーティができるのだという。

さらに路上生活者は、都市のリサイクル業者でもある。彼らはさまざまな創意工夫で、まったくお金をかけずに快適な生活を実現している。私が驚いたのは、12ボルトの自動車用バッテリーで電化生活を送っていたり(冷蔵庫や小型テレビまで12ボルトで動かせるのだという)、ソーラーパネルを装備して自家発電している路上生活者がいることだ。もちろんすべてリサイクル品で、コストはゼロ円だ。

本書でもっとも印象的なのは、「代々木公園の禅僧」と名づけられたひとりの男性だ。彼は代々木公園のケヤキの下にブルーシートを敷いただけで、家すら持たずに暮らしている。雨の日は区役所か都庁の地下に行き、冬も毛布1枚か2枚で過ごす。お金はいっさい持たず、支援団体が配るおにぎり2個で暮らしている。彼によれば、現代人はそもそも食べすぎで、1日におにぎり2個の生活のほうがずっと健康的なのだという(まるでこのひとみたいだ)。ここまで達観すると、もはや修行僧だ。

かつて人類は、狩猟採集民として「海の幸」「山の幸」で暮らしていた。路上生活者は彼らの正統な末裔として、この現代社会で、「都市の幸」に囲まれながら「都市型狩猟採集生活」というまったく新しいライフスタイルを創造しているのだ。

こうした坂口の主張はきわめて魅力的だけれど、同時に強い批判を浴びるだろうことも容易に想像がつく。坂口は、「路上生活者は“貧しく不幸なひとたち”ではない」といい、「彼らを強制的に“社会復帰”させるのは善意による暴力だ」と訴えている。“ホームレス対策”というのは、ネイティブアメリカンやアボリジニなど伝統的な生活を送るひとびとを、「啓蒙」の名の下に文明化しようとするのと同じことなのだ。

坂口の主張を徹底すれば、ホームレスが増えても、「好きで路上生活してるんだから放っておけばいい」ということになる。路上生活(都市型狩猟採集生活)の方がより“ゆたか”な生活ができるのだとしたら、貧困は、不自由な都市生活者(私たちのことだ)が狩猟採集へと移行するよいきっかけになる。だったらいますべきことは公園や河川敷を路上生活者に開放することで、貧困対策などすべてやめてしまったほうが私たちはずっと幸福になれるにちがいない……。はたしてこれでいいのだろうか?

路上生活というAlternativeの限界は、人気映画監督・堤幸彦の新作『MY HOUSE』を観るとよくわかる。坂口のフィールドワークにもとづいたこの映画は、「都市の自由民」としての路上生活者を描いている。堤自身、ニューヨークでオノ・ヨーコを起用してホームレスの映画を撮ったこともあるというから、たんなる興味本位の企画でないことは明らかだ。

しかしそれでも、この映画を観て路上生活という「別の人生」に飛び込んでみたいというひとはいないだろう。ホームレスの一人(石田えり)は、最後には進学塾に通う中学生に殴り殺されてしまう。ここでは路上生活者は排除され滅びゆくマイノリティで、彼らの目を通して現代社会が批判される。これをステレオタイプと批判するのはかんたんだが、これ以外に描きようがないのも事実だろう。

映画では、主人公は公園の一角に廃材を使った家をつくり、アルミ缶を拾って生計を立てている(残飯ではなく、食材はスーパーで買っているようだ)。彼が自転車に乗って「都市の幸」を採集する様子がモノクロ画面で忠実に再現されるのだが、それがリアルであればあるほど「こんなこととてもできないよ」と思ってしまう。ほんとうの路上生活は、「自由」かもしれないが、魅力的でも楽しくもないのだ(路上生活を気楽な人生だと考えていたラブホテルのオーナーが、主人公から話を聞いた後で、「事業に失敗して路上に放り出されたときには仲間に入れてくれ」と頼む場面があるが、ここは身につまされる)。

いまからもう20年も前のことになるが、鶴見済の『完全自殺マニュアル』がベストセラーになった。この本で鶴見は、「生きていくのがそんなにつらいなら自殺すればいいじゃん」と述べた。同様に坂口は、「格差社会なんか関係ないよ。路上生活、最高だよ」といっている。

私たちはずっと強い閉塞感を抱えていて、「どこでもいいから“外”に行きたい」と願っている。そんな私たちが見つけた「ここではないどこか」が、20年前は「自殺」で、いまは「路上生活」だ。けっきょく実行できないところも、ふたつの処方箋はよく似ている。だからこれは、「独立国家」と同様に、現代の寓話なのだ。

映画『MY HOUSE』でもうひとつ気づいたのは、路上生活が個人的な営みだということだ。彼らが現代の「狩猟採集民」になるためには、自分たちの共同体をつくり、そこで子どもを育て、家族を営まなくてはならない。そこから独自な文化を持つAlternatveな社会が生まれてくる。しかしこれではマンガにしかならないから、「寓話」を実現可能なユートピアとして映画化するのはもともとムリだったのだ。

いまひとびとが求めているものは、もっと現実的なAlternativeだろう。それが「自殺」や「路上生活」になってしまうことに、夢を失った時代の不幸が表われている。