“強欲の象徴”と神 アメリカ人という奇妙なひとたち (『(日本人)』未公開原稿3)

新刊『(日本人)』の未公開原稿です。

世界金融危機の時の米財務長官(元ゴールドマンサックスCEO)ヘンリー・ポールソンの逸話が面白かったので書いたのですが、アメリカ人と神の問題は手に余るのでカットしました。

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どうして新しいコートを着ているの?

ドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーアの『キャピタリズム―マネーは踊る』や、2010年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した『インサイド・ジョブ―世界不況の知られざる真実』(チャールズ・ファーガソン監督)などで〝強欲なウォール街〟を象徴する人物に挙げられているのが、ゴールドマンサックスの元CEOで、ブッシュ(息子)政権の財務長官として世界金融危機での金融機関の救済にあたったヘンリー・ポールソンだ。

ポールソンはウォール街でも最高の給与とボーナスを手にしたビリオネアだが、その生活は世間一般の“強欲”のイメージとはずいぶんちがう。

シカゴ郊外の農場で生真面目な中西部人として育ったポールソンは、大学(ダートマス)時代はアメリカンフットボールの選手として活躍し、聖書原理主義と心霊主義(スピリチュアリズム)で知られるクリスチャン・サイエンスの敬虔な信者でもあった。大学時代に海兵隊将校の娘であるウェンディ(彼女はヒラリー・クリントンのクラスメイトだった)と知り合い、結婚してからは、夫婦ともにバードウォッチングを趣味とする自然愛好家として、質素と倹約を旨とする日々を過ごした。

ハーバード大学ビジネススクールを卒業後、ワシントン(国防総省)の補助スタッフとして働いていたポールソンは、妻が最初の子どもを妊娠すると、“ゴッサムシティ(背徳の町)”ニューヨークには住まないという条件でゴールドマンサックスのシカゴ支店に職を得た。ポールソン一家はシカゴ北西部の生まれ故郷の村に移り、父親から5エーカーの自営農場を買って、オークの林のなかに慎ましい木造の家を建てた。40年後のいまでもそれが彼らの自宅だ。

ゴールドマンサックスのCEOとしてニューヨークで暮らすようになると、部下たちがニューヨーク郊外の城のような邸宅に住んでいるにもかかわらず、アップタウンの二ベッドルームのアパートメントを選んだ。セントラルパークの近くにしたのは、ジョギングとバードウォッチングのためだ。ポールソンは身だしなみにほとんど関心を示さず、擦り切れそうなスーツを着て、プラスティック製のランニングウォッチを愛用していた。

ある日、ポールソンは、10年来着ているコートがずいぶん古くなっていることに気がついた。そこでニューヨーク五番街の高級デパート、バーグドルフ・グッドマンでカシミアのコートを買ったのだが、帰宅した夫の姿を見てウェンディは、「どうして新しいコートを着ているの?」と訊いた。翌日、ポールソンは百貨店にコートを返しにいった。

2006年、ブッシュ政権は新しい財務長官としてポールソンに白羽の矢を立てた。ポールソン家は熱心な民主党の支持者で、そのうえ妻のウェンディはヒラリー・クリントンの親友だった。しかしそれでもポールソンは、「アメリカのために献身せよ」という依頼を断わることができなかった。

こうしてポールソンは、世界金融危機の混乱に巻き込まれていくことになる。

運命の日

第二期ブッシュ政権は、9・11同時多発テロに端を発したアフガニスタンとイラクでの長い戦争で国民の支持を失いつつあった。そのうえ高騰をつづけていた住宅価格は2006年にピークをつけ、サブプライムローンによる破産者の急増が社会問題になりはじめた。

住宅金融専門会社の危機は2007年から始まり、翌085年には投資銀行のベア・スターンズが破綻、フレディマックとファニーメイ(ともに不動産を担保とした債券を発行する政府支援機関(エージェンシー)で、政府が実質的に信用保証をしている)が経営危機に陥った。ポールソンはこれらの金融機関を公的資金で救済し、世論からきびしい批判を浴びた。

巨額の資金を投入しても金融危機は収束せず、やがてウォール街の巨大金融機関の経営が軒並み傾き出した。とりわけ危機的だったのは、投資銀行のリーマン・ブラザーズと世界最大の保険会社であるAIGで、この二社が破綻すればメリルリンチとシティバンクが危うくなり、そうなればモルガンスタンレーとゴールドマンサックスまで存続できなくなると懸念されていた。すなわち、この世からウォール街が消滅するのだ。

しかしこのときポールソンは、深刻な問題を抱えていた。ベア・スターンズの救済がきわめて不評だったため、リーマン・ブラザーズを公的資金で救済することが政治的に不可能だったのだ。危機を回避するには、どこかの金融機関に買収してもらうしかない。

体力を失ったアメリカの金融機関が尻込みするなか、最後に残ったのがイギリスのバークレイズだった。そして、運命の2008年9月14日(日曜日)がやってくる。

この日ポールソンは、リーマンとバークレイズとの合併について、イギリスの財務大臣から拒否の最後通告を受けた。メリルリンチの救済相手は決まらず、AIGの破綻も避けられなかった。

このままでは、月曜の朝から金融市場は大混乱になる。いままさに世界が崩壊しようとしているのに、もはや打つ手はない。

このときのポールソンの心境が回顧録に描かれている。とても興味深いので、その部分を引用してみよう。

週末のあいだはつねに鎧に身を固めていたが、不安に屈したいま、その鎧がほどけ落ちていくのがわかった。妻に電話をしなくてはならない。だが、まわりに人がいるため執務室の電話は使いたくなかった。少し歩いてエレベーターの先、窓がある一角へ行き、ウェンディに電話をかける。教会から戻ったばかりだという彼女に、リーマンの破産は防げず、AIGが破滅の淵に追いやられようとしていると告げた。

「金融システムが壊滅したらどうなるのだろう。世の中から一身に注目されているというのに、打開策が見えてこない。恐怖で胸が詰まりそうだ」

「恐れなくてもいいわ。あなたの務めは神の御心、無窮の心に沿うこと。神のご加護に頼ればいいでしょう」

わたしのため、そしてこの国のために祈ってほしい。不意に襲った猛烈な恐怖に立ち向かえるよう救いを与えてほしい。こうすがるわたしに向けて、彼女は迷わずテモテへの第二の手紙一章七節を唱えた。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(新共同訳)

わたしたちが愛唱する一節である。悟りの境地に達すると魂が安らぎ、強さがみなぎってきた。

 “神なき国”に生きている私たちにはとうてい想像できないが、アメリカの政権中枢というのはこういう世界なのだ。

参考文献
1 ヘンリー・ポールソン『ポールソン回顧録』(日本経済新聞出版社)
2 アンドリュー・ロス・ソーキン『リーマン・ショック・コンフィデンシャル―追いつめられた金融エリートたち』(早川書房)