バッシング
前期旧石器遺跡の捏造が発覚した後、関係者に対する批判は当然のことながらすさまじいものがあった。
だが当事者である藤村は、記者会見でいちど謝罪してからは、精神に変調を来したとして精神病院に入院してしまった。藤村といっしょに発掘調査にあたっていたのは地方の研究者で、考古学会では無名にちかかった。そのため批判の鉾先は、座散乱木遺跡で前期旧石器時代を「発見」し、その「成果」をもとに文化庁に迎えられ、いまや旧石器時代の専門家となっていた岡村に向かうことになる。
捏造が発覚する10日前の2000年10月24日、大々的な宣伝のもと講談社から『日本の歴史』シリーズの刊行が始まった。第一回の配本は、網野善彦の00巻と岡村の01巻『縄文の生活誌』だった。
まず立花隆が『週刊文春』(12月14日号)で、「講談社は、こんな本は一刻も早く回収して、筆者に書き直しを求めるべきだろう」と書いた。つづいて丸谷才一が「毎日新聞」夕刊(12月15日付)で、「(物語的叙述部分については)小説的な語り口は、著者の知力や認識を疑う」「回収・絶版もしくは欠巻を勧告すると共に、この歴史シリーズに推薦文を寄せた不明を詫びる」との批判を寄稿した。さらには「朝日新聞」朝刊(12月19日付)の「天声人語」は、「この本の回収と絶版は、著者、シリーズの編集委員、出版社の責任であり、良心の問題だ」と書いた。
これらの批判を受けて講談社は、岡村の本を回収して絶版とし、著者の書き直しによる改訂版を出すと発表した、それ以外にも岡村には古代遺跡に関する複数の著作があり、これらもすべて絶版となった。
つづいて、「満足な学歴もないたんなる考古学愛好家の藤村にこのような高度な遺跡の捏造ができるはずはない」として、「共犯者」として岡村を名指しする批判が相次ぐようになる。宮城県議会では、「組織ぐるみの犯行」だとして、藤村に対する損害賠償請求ととともに岡村への事情聴取を求める声があがり、偽計業務妨害や詐欺罪での告発が検討された。元宮崎公立大学教授の奥野正男は、「文化庁・歴博関係学者の責任を告発する」として『神々の汚れた手』(梓書院)を上梓し、そこで「藤村こそが岡村の仮説立証に利用され、騙されつづけた哀れな被害者である」と批判した(同書は04年度の毎日出版文化賞を受賞した)。
岡村の回想によれば、ある大学教授は「藤村を増長させた真相を調べるためには、文化庁に張本人がいる」との談話を新聞に寄せ、同世代の大学の研究者からは「責任をとって詰め腹を切れ」とのしつこい電話がかかってきた。
身近な考古学研究者からも、「岡村さんほどのひとかどの研究者がまんまと騙されたのは信じられない」とか、「君が大丈夫だといったから信じたので、迷惑をこうむっている。だから君が憎い」などと罵られた。
岡村は孤立無援のなか、事件の核心にもっとも近い「第一次関係者」とされ、犯罪の容疑者同様の扱いを受けることになった。
考古学会という“カルト組織”
藤村の「前期旧石器遺跡捏造」は、発覚直後から、「科学史上最悪のスキャンダル」と呼ばれたピルトダウン人事件と比較された。
20世紀はじめ、イギリス・イーストサセックス州のピルトダウンで、弁護士で地元の考古学愛好家のチャールズ・ドーソンが頭頂骨と側頭骨の化石を発見した。それを大英博物館の専門家が「現生人類最古の化石」と認定して考古学上の大発見となったのだが、それから50年後、詳細な科学調査の結果、化石は人骨にオランウータンのあごの骨を組み合わせた偽造であることが明らかとなった。そのときには関係者全員が他界しており、事件の真相は不明のままだ。
ピルトダウン人も発見当初からさまざまな疑問が指摘されていたが、考古学者の大半はそれを本物として膨大な論文を執筆したため、偽造が証明された後には考古学史の大幅な修正が必要になった。ところが「前期旧石器遺跡捏造事件」は、日本でこそ教科書の書き換えや国指定史跡の取消しなどの大きな混乱を招いたが、世界の考古学史にはほとんど影響を与えなかった。その理由は簡単で、最初からまともに相手にされていなかったのだ。
藤村らの発掘を「人類史を書き換える“世紀の大発見”」と囃した日本の考古学者たちは、その成果を世界に問う意志をまったく持っていなかった。彼らは英文の定評ある考古学雑誌にほとんど論文を発表せず、そもそも満足に英語を書くことすらできなかった。そのかわり日本の学者しか読まない日本語の雑誌に「論文」と称するものを載せ、マスターベーションのように自分たちの「成果」を誇っていたのだ。
これはマスコミも同じで、なぜ「世界的な大発見」が世界ではまったく評価されないのかを論じたものは皆無だった。だれもかれもが、「日本の学界」というタコツボ(@丸山真男)のなかで踊っていたのだ。
日本の考古学では、発掘した石器は他人には見せないのが常識になっていた。東北旧石器文化研究所の鎌田らは、自分たちに好意的な研究者にしか石器の実見を許さなかった。日本の考古学会では同僚や知人の研究を批判すること自体がタブーで、たとえ疑問を持ったとしても指摘しないのが“正しい態度”とされていた。
フランスで旧石器の形式学を学び、藤村の発掘した旧石器の不自然さを批判した竹岡俊樹は、97年当時、共立女子大学の非常勤講師で、2011年のいまも非常勤講師のままだ。86年に英文の批判論文を書いた東京都教育庁主任学芸員の小田静夫にいたっては、その後の学者人生を棒に振ることになった。
小田の批判を「言いがかり」ととらえた鎌田と藤村は、87年、小田のお膝元である多摩ニュータウンの471-B遺跡で前期旧石器を「発掘」して報復した。
2001年1月、東京で開かれたシンポジウム「前期旧石器問題を考える」で基調講演を行なった小田は、はじめて思いのたけを語った。
「(多摩から化石が出たとき)『これで小田は死んだ』と言われた。『あいつは前期旧石器を見つけられないから、それでねたんであっちこっちに言っている』と。私は本当に悔しい思いをした」
「私の職場もひとつの組織ですから、うっかりしゃべったら、とうに辞めさせられていたかもしれませんね。今まで二十数年間生きてきたのは、そこで口をつぐんできたから。それが封印された結果だったんでしょ」
「学問とは違う次元で批判されたので、旧石器は嫌になってしまいました。(それで研究対象を)黒潮に転換した。私の人生を変えた前期旧石器の捏造問題ですが、それはどうか皆さんに検証してもらえばよいですから」
正しいことを言っても、黙殺されるか村八分にされる。ここから若手の研究者たちが得た教訓は明らかだ。
日本のアカデミズムを生き延びるには、真実よりもオカルトを信じることだ。「考古学会」というカルト組織の暴走と破滅は、最初から予定されていたことなのだ。
「捏造」の真相
石器実測図も書けず、専門的な知識もなかった藤村は、なぜ20年以上もだれにも気づかれず遺跡の捏造をつづけられたのか。
前期旧石器のほとんどは南東向きの日当たりのよい、沢を囲んだような場所にあり、火山灰による堆積を避け、地層の境目に巧妙に埋め込まれていた。研究者からも、「あれほど系統だって矛盾しないように遺跡を捏造することはとてもできない」との疑問の声があがった。これが「岡村黒幕説」へとつながっていくのだが、いまではほぼ捏造の手口は解明されている。
事件発覚後、藤村の実家からダンボール十数箱分の化石コレクションが発見された。休日などを利用して自宅周辺の遺跡から採集したもので、ほとんどが縄文時代の土器と石器からなっていた。
このコレクションを実見した考古学者の松藤和人は、「一種の戦慄さえ覚えた」という。
ふつうの石器収集マニアは、完成形できれいな石器を中心に拾い集める。だが藤村は、剥片、砕片、石核まで、石器であればどんなものでもランダムに収集していたのだ。
遺跡を捏造するには、こうして集めた石器を正しい地層に埋め込まなければならない。もちろん、藤村には地層についての専門的な知識があるわけではない。
だが遺跡発掘現場では、農家や学校の体育館を借り上げて、研究者やボランティアが寝食を共にしながら深夜まで検討会が行なわれる。彼らは地層図を詳細に検討しながら、「一般には礫群や炭水化物が発見されるのだが」とか、「なぜ粗石の安山岩製石器が出てこないのだろうか」など、さまざまな議論をぶつけ合う。藤村はそれを隣でじっと聞いていて、彼らが予想した場所に予想した石器を埋めたのだ。
このことから、岡村などの専門家がなぜ手もなく騙されたのかも説明できる。
藤村の埋め込んだ石器は、事件発覚後に冷静になって見れば、農機具によるガジリと呼ばれる欠損や鉄錆などが付着していて、地表面から採集したものであることは明らかだった。さらには藤村のミスで、上高森遺跡の石器が埋まっていた跡形に青々としたマツの葉が残っていたことがある。調査員はもちろん気づいたが、この明らかな捏造の証拠も、なにかの拍子に紛れ込んだものとして歯牙にもかけられなかったという。
ひとは、「正しい」ものに疑問を持つことができない。藤村の埋めた石器は、常に自分たちの予想の正しさを証明していた。「前期旧石器遺跡捏造事件」の本質は、けっきょくのところ、この“自己洗脳”にあるのだろう。
藤村は30年近くのあいだに186遺跡を捏造し、そのうち33ヶ所の発掘現場で石器を埋めていた。
切り落とされた「神の手」
2001年5月、日本考古学協会は「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会(特別委」を設立し、発掘捏造問題について「1年をめどに結論を出す」と明言した。この頃藤村は福島県下の精神病院に入院していたが、特別委は医師の許可を得て藤村と面談し、捏造の詳細を聞き出した。これが、「藤村告白メモ」と呼ばれるものだ。
10月11日、宮城県教育委員会は特別委の要請を無視して、この告白メモをマスコミに公開した。
一部を伏字にされたメモには、「私●●●で捏造を行いました」などの表現が多出していたことから、一時は共犯者がいるのではと騒然となったが、すぐに、伏字部分には「分身A」「分身B」などと書かれていたことが明らかとなった。
文化庁主任文化財調査官から奈良文化財研究所を経て2008年に退官した岡村道雄は、若い編集者から「遺跡捏造事件」を総括する本を書くことを求められ、10年ぶりに藤村と対面し、事件の詳細を直接問い質す決心をする。
藤村は2003年7月に退院し、再婚して姓を変え、仕事も見つけて、東北のある街で新しい生活を始めていた。
岡村の前に現われた藤村は、かつてと同じ朴訥な雰囲気のままだった。尋ねられれば、家族のことやいまの暮らしをポツリポツリと語り、「最近、鎌田さん(鎌田俊昭元東北旧石器文化研究所理事長)が夢の中に出てきて、石器を早く出せ、早く出せと言われる夢で目を覚ますことがたびたびある」などと語った。
だが岡村が捏造のことに話題を振ると、「分からん。覚えてない」と頭を抱えるばかりで、具体的なことはなにひとつ話そうとしなかった。座散乱木をはじめとして、捏造にかかわった遺跡の名前はすべて忘れてしまったという。しかしそれでも岡村に迷惑をかけたことはわかるらしく、なんども「本当にごめん。すまなかった」と謝った。
藤村は自分の病名を「解離性同一性障害(多重人格)」と説明し、月1回診察を受け、薬をもらって毎日1錠飲んでいるのだといった。
藤村には、右手の指がなかった。
岡村がどうしたのかと聞くと、入院中に裏山で、ナタを30回叩きつけたのだと話した。
かつて「ゴッドハンド」と呼ばれた男は、自ら“神の手”を切り落としていた。
参考文献
1 毎日新聞旧石器遺跡取材班『発掘捏造』(新潮文庫)
2 毎日新聞旧石器遺跡取材班『古代史捏造』(新潮文庫)
3 岡村道雄『旧石器遺跡「捏造事件」』(山川出版社)
4 竹岡俊樹『旧石器時代人の歴史―アフリカから日本列島へ』(講談社)
5 松藤和人『検証「前期旧石器遺跡発掘捏造事件」』(雄山閣)