アカデミズムという虚構 旧石器遺跡捏造事件 (『(日本人)』未公開原稿2)

北京原人より古い「日本原人」

岡村は「前期旧石器時代発見」の成果を持って87年、文化庁の文化財調査官に栄転し、発掘の現場を離れることになる。だが藤村の遺跡発掘はその後もつづき、いつしか「ゴッドハンド(神の手)」と呼ばれるようになっていた。

88年に「談話会」を中心に始まった宮城県築館(つきだて)町(現・栗原市)の高森遺跡発掘調査では約20万年前の地層から石器が発掘された。その後、高森遺跡は調査主体が宮城県教育委員会になり、92年に北京原人とほぼ同じ約50万年前の地層から石器を掘り出して、当時の本間俊太郎宮城県知事が「日本の歴史を塗り替える大発見」と賞賛した。

だがこの頃から、発掘の成果をめぐって「談話会」と県教育委員会の間に亀裂が生じ、藤村らは新たに「東北旧石器文化研究所」を設立し、別途見つけていた上高森遺跡を独自に発掘調査することになる。藤村の抜けた高森遺跡からは途端になんの遺跡も発見されなくなり、新高森遺跡からはたちまち日本最古となる約60万年前の石器が出土した。

高森・新高森遺跡のある築館町は原人ブームに沸き、「原人まんじゅう」や日本酒「高森原人」、「原人ラーメン」などが次々と発売された。

この「原人ブーム」は2000年、埼玉県秩父市に飛び火する。藤村らが同市の小鹿坂(おがさざか)遺跡から約50万年前の柱穴の跡を発見し、「世界的にも例のない原人の建物遺構」と大々的に報じられたのだ。

秩父市はこれを受けて、イメージキャラクター「秩父原人・チプー」を登場させるとともに、たいまつ行列などを繰り広げる「秩父原人祭り」を開催した。西武秩父駅周辺の商店やレストランでは、「原人定食」や「原人ワイン」、土産菓子「秩父原人の里」などが売り出された。

その間にも、95年に開始された岩手県岩泉町のひょうたん穴遺跡発掘調査は、現場が石灰岩洞窟であることから「原人化石」が期待できるとして、報道各社が連日テレビカメラを構える異常な興奮状態のなかで行なわれた(けっきょく動物骨しか出土しなかった)。

また97年には、約30キロ離れた遺跡で見つかった石器片の断面が一致するという「天文学的確率の奇跡」が起きた。山形県の袖原(そではら)3遺跡と宮城県の中島山遺跡で、石器片はいずれも10万年前のもとの判定された。これは原人たちが二つの遺跡の間を行き来していた証拠とされ、「世界にも類例のない」画期的な発見と報じられた。

岡村らによる前期旧石器遺跡の発見からわずか20年で、日本列島の「原人」は北京原人よるはるかに古い70万年前まで遡ってしまった。

日本人だけが「特別」

考古学上の相次ぐ「世紀の発見」を受けて、日本の考古学者たちは独自の学説を唱えるようになった。

岩波書店の専門誌『科学』(2000年3月号)は、前期旧石器遺跡発掘を主導してきた藤村を含む東北旧石器文化研究所と東北福祉大学の研究者4名の共同論文「世界最古の石器埋納遺構 日本最古の石器群 上高森遺跡での新発見」を掲載した。

この論文のなかで筆者たちは、上高森遺跡で発見された石器のまとまりを男性器と女性器に見立て、原人たちがここで一種の豊穣儀礼を行なっていたと述べている。考古学の常識では、「文化」と呼べるような精神性をヒトが獲得するのはホモ・サピエンス(新人)になってからで、ネアンデルタール人などの原人は言葉を話す能力を持たず、身振り手振りで簡単なコミュニケーションをとるだけで、埋葬などの習慣もなかったと考えられている。だが紀元前70万年から50万年に東北地方で暮らしていた原人は「複雑な言語を使用し、時間の概念を持っていた」とされ、原人の能力を低く考える欧米を中心としたこれまでの学説は「埋納という事実」によって覆されたと高らかに宣言した。

日本の考古学会はこの“革命的な”新説をこぞって受け入れ、新高森遺跡などの前期旧石器遺跡は、発掘報告書が作成されていないにもかかわらず、中学や高校の歴史教科書に次々と掲載された。東京国立博物館や国立歴史民俗博物館は藤村らが発掘した石器を大々的に展示し、岡村の名を高めた座散乱木遺跡は文化庁によって国史跡に指定された。当時の土屋義彦埼玉県知事は、秩父で原人の遺構を発見した功績により藤村を知事表彰した。

当時の熱狂が一部の古代史マニアだけではなく、考古学会をあげてつくりだしたものであることは、日本の縄文研究の権威である小林達雄国学院大学教授(当時)が全国紙に寄稿した次の一文が明瞭に語っている。

 旧人から新人への交代劇には諸説あって、旧人は滅ぼされて地上から姿を消したという仮説が優勢である。けれども、今回の『日本原人』の発見は、彼らが日本列島に腰を据えて、相当程度の知的水準を獲得しながら旧人へと進化し、その末嫡が新人に変わったのではなかったかという仮説の有力な根拠になりそうな気配を見せている(2000年3月14日付「毎日新聞」夕刊)。

 約三万年前までに原人は絶滅し、人類はホモ・サピエンスから進化した。しかし世界でただひとつ日本列島だけは、きわめて高い知能と文化を持つ原人たちが暮らしており、彼らが進化したことで日本人が生まれた。すなわち、日本人だけが「特別」なのだ。

こうした「選民思想」は、バブル崩壊後の長い不況に苦しむ日本社会に熱狂的に受け入れられた。そして……。

2000年11月5日、「毎日新聞」朝刊一面に、上高森遺跡の発掘現場で、藤村がポケットから石器を取り出し、地面に埋め込む場面が大きく掲載された。

もうゲームから降りられない

前期旧石器遺跡の捏造に気づくきっかけは、もちろんいくつもあった。

たとえば岡村が調査に加わった座散乱木遺跡の発掘でも、すでに81年の段階で、現場を訪れた地層調査の専門家から、そこが火砕流堆積物であるとの指摘があった。当然のことながら、高温のガスが噴出する火砕流の上にヒトが住めるはずはなく、調査団は深刻な動揺に見舞われた。

だが岡本らは、「石器が出土した」という“事実”を否定することができず、いちど堆積した火砕流層が雨水などの自然作用で流され、再堆積した地表面で原人たちが生活していたのだと都合よく解釈してしまった(後の検証作業では、こうした見解は完全に否定された)。

86年、東京都教育庁の主任学芸員・小田静夫は、上智大学のチャールズ・T・キーリとともに、「人類学雑誌」に英文の批判論文を掲載した。考古学の論文を人類学の専門誌に投稿したのは、「(考古学雑誌では)握りつぶされるにきまっているから」だという。

小田とキーリはこの論文で、藤村らが発掘した「前期旧石器」に対し、同じ場所で出土した石器でも同じ母岩からつくったとみられるものがないことなどを指摘し、その信頼性に疑問を投じた。だが“前人未到”の大発見の高揚感に包まれていた調査団はただ反発するだけで、日本の考古学界からは完全に黙殺された。

パリ第六大学で先史学と石器の形式学を学んだ竹岡俊樹・共立女子大学非常勤講師は、帰国後の97年2月、上高森遺跡の埋納遺構から出土した石器を実見し、「あまりのことに呆れてただ大声で笑った」。約60万年前の地層から発掘されたというそれらの石器は、原人とは異なる繊細で器用な手でつくられた、まぎれもなく縄文時代のものだったからだ。

竹岡は翌98年6月、雑誌「旧石器考古学」に「『前期旧石器』とはどのような石器群か」という論文を寄稿し、藤村らの発掘した石器は「私がこれまで見てきたいかなる前期旧石器時代の石器とも全く異質」で、「縄文時代の石器と形も技術も一緒」だと指摘した。

竹岡の論文は表向きはほとんど反響を呼ばなかったが、この頃には専門家のあいだでも前期旧石器遺跡への疑問が囁かれるようになっていた。その噂は岡村の耳にも届いており、藤村の関与しない遺跡での類例の発見を切望したものの、そのような報告はひとつもなかった。

捏造が発覚する直前には、藤村と共同で発掘作業にあたっていた鎌田俊昭東北旧石器文化研究所理事長に直接、問い質したこともあった。だが鎌田は遺跡は本物だと強く主張し、岡村もそれに納得してしまう。

賭け金はあまりに高く積み上げられており、彼らはもうゲームから降りられなくなっていたのだ。