彼らはなにを食べていたのか?
このような生き地獄で、日本兵はどのように死んでいったのか。山本は、乾いた筆致で描写する。
骨と皮の死体に、いやまだ生きている生体に、ハエが卵を生みつけた。べとべとの地面に広げた携帯天幕か軍用毛布の上に横たわって、数分か数十分後の死を待ちつつ、目を見開いてほとんどまばたきもせず、口を力なくあけて、最後の力をふりしぼって呼吸をしているそのくちびるとまぶたには、すでにハエが、真白に卵を生みつけていた。まつげの一本一本の根元に、きちんと一列に白い卵が生みつけられていながら、瞳をゆっくりと左右に動かしつつ力なく空を見ている――この状景だけは何年たってもはっきり目にうかぶ。
死体とはつまるところ、その形のままただ呼吸がとまり、体温がなくなるだけのことであった。そしてそのころには全身くまなくハエがなめまわしていた。ほんの数日で卵はすべて蛆になる。骨と皮の死体が奇妙に太りはじめ、ぼろぼろの軍用シャツのボタンをはじきとばすぐらいの力で膨張しはじめる。そのころには、体内は蛆のかたまりで、黒ずんだ皮膚の内側を蛆が動くのが外から見える。
目、耳、鼻、口、へそ等のまわりが特に黒ずみ、やがてそこがくずれて、膿汁のような灰黒色のどろっとした液体が流れ出る。この粘液のような濃度の流出が次第に太くなり、やがて体内の液はどっとあふれ出、同時に膨張した死体の形が一気にくずれてしぼみ、骸骨が皮をかぶったような形になり、そのまわりを地面いっぱいに、どろりとした灰黒色の膿汁のような液体が、もりあがったようにたまる。
その中を無数の蛆が、体をちぢめたり伸ばしたりしながら、物狂おしいように動きまわる(山本七平『私の中の日本軍』)。
日本兵をもっとも苦しめたのは、ジャングルには食糧がまったくないことだ。
山豚はもちろん、ヘビやカエルまで食べられる生き物はたちまち取り尽くされ、山本たちは、夜になるとフィリピン人の部落に忍び込んで米を盗んだ。もちろん米軍はそれを知っているから、待ち構えて標的にした。山本は、「仕掛けられたワナの肉片を、それと知りつつ、秘術をつくしてかすめ取ろうとする野獣に似た行為」が日本軍にとっての戦術であったと皮肉混じりに書く。
だがニューギニアのウェワクでは、状況はこれよりさらに過酷だった。1年以上にわたって、一万数千の日本兵がジャングルの中で敵に完全に包囲されていたのだ。
では、彼らはなにを食べていたのか。
終戦後の処刑
「捨身即救身」「神軍 怨霊」などと車体に大書し、自費出版した『人類を救済する手段として田中角栄を殺すために記す』なる書籍の巨大な看板を載せた白のマークⅡを駆って、奥崎は銃殺事件に関与したとされる下士官や軍医、衛生兵のもとを訪ね、ときには暴力をふるって真実を問いただす。
彼らは、徐々に重い口を開くようになる。事件の概要は、次のようなものだ。
食糧の枯渇したウェワク残留隊では、部隊にとどまっても餓死を待つだけだった。そこで多くの兵士が、食糧を求めて部隊を離脱した。2人の上等兵も、「どうせ死ぬなら腹いっぱい食べてから死にたい」と、連れ立って部隊を離れた。ところがそのうちの一人が重いマラリアにかかり、日本の敗戦を知ったこともあって、部隊に戻ることにしたのだ。
元兵士たちによれば、終戦の3日後には、残留隊でもその事実は知られていた。それでも投降しなかった理由は定かではないが、部隊は9月のはじめまで籠城戦をつづけることになる。そんなとき、「敵前逃亡」した兵士が突然戻ってきたのは迷惑以外のなにものでもなかった。
独立工兵第36連隊の残留守備隊長は、軍命令を理由に、敵前逃亡の咎で2人を銃殺刑に処すよう下士官に命じる。
銃殺刑では小銃が5丁用意され、そのうち1丁はわざと空砲にしてあった。曹長や軍曹、伍長、衛生兵など、銃をとった兵士たちは、誰もが自分は空砲を撃ったか、わざと照準を外したと釈明した。
2人は倒れたが、まだ息はあった。そこで残留守備隊長が腰のピストルを抜いて、1発ずつ撃ち込んで止めを刺した。
残留守備隊長は戦後、苗字を変えて暮らしていた。さらには5人の処刑人のうち2人までが、やはり苗字を変えていた。彼らみな、ひとに知られてはならない過去を怖れていた。
処刑人の1人だった元衛生兵は、奥崎と遺族の前で、2人の遺体は地面に埋めて葬ったと述べた。終戦後、遺骨の入った箱を届けた曹長は、父と弟の前で、「これ以上はなにも聞かないでください」と号泣した。
奥崎や遺族は元衛生兵に対し、残留部隊の食糧事情を執拗に追求した。いまは神戸で息子たちと割烹を営む気の弱そうな元衛生兵は、自分たちが「白ブタ」や「黒ブタ」を食べて飢えをしのいでいたことをあっさりと告白する。「白ブタ」は白人の肉、「黒ブタ」は原住民の肉のことだ。
衛生兵はなんども、「日本兵の肉を食べたことはない」と繰り返した……。