名門企業オリンパスが、20年にわたり巨額の損失を隠してきたことで会社存亡に機に立たされています。事件の概要はすでに報じられているとおりですが、基本的な構図は97年に経営破綻した山一證券と同じで、財テクの失敗を隠蔽するために歴代経営陣が粉飾決算を繰り返してきたというものです。
海外メディアでもこの事件は、日本企業のコーポレートガバナンス(会社統治)の問題として大きく報道されています。
ガバナンスというのは、組織内の権限と責任を明確にして、権力構造(指揮命令系統)をだれでもわかるようにすることです。軍隊では、作戦本部から末端の兵士まで命令が効率的に伝わるようにしなくては戦争に勝つことができません。ところが日本の組織では、このガバナンスがおうおうにして失われてしまいます。
もちろんどのような組織でも権力構造があることに変わりはありませんが、日本の組織はそれが水面下に隠れてしまい、外部からはどこに権力の中心があるのかわかりません。権限と責任が分離して、いつのまにか責任の所在が消えてしまうことで、だれも責任をとらない「無責任体制」が完成するのです。
ただしこれは、日本社会に特有の病理というわけではありません。「全員一致」でしかものごとを決められないムラ社会では、責任も全員に分散されますから(一億総懺悔)、原理的に責任をとることができないのです。
ところがこのような「無責任社会」で、たまたまある特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。
このことに最初に気づいたのは政治学者の丸山真男で、大正12年に起きた皇太子(後の昭和天皇)狙撃事件後に、内閣が総辞職し、警視総監から警護にあたった末端の警官までが懲戒免官となったばかりか、狙撃犯の郷里が全村をあげて「喪」に服し、彼が卒業した小学校の校長や担任の教師が辞職した例をあげています。
権限と責任が分離すると責任の範囲があいまいになり、いったん「有罪」を宣告されると責任が無限に拡散していきます。このような社会ではだれもが責任を避けるようになりますから、全員の総意によって、だれも責任をとらなくていい“やさしい社会”が生まれたのです。
ほとんどのひとが誤解していますが、「株主主権」というのは、会社のガバナンスを機能させるための一種のつくり話です。なぜこのような“ウソ”が必要になるかというと、組織における権限と責任を決めるには、「会社の所有者はそもそも誰か」という基本設計が必要だからです。コーポレートガバナンスは、「主権者」である株主を権力の中心において、会社の権力構造を明示化する仕組みなのです。
ところが日本ではこのことはほとんど理解されず、「株主資本主義」は日本的な美風に反すると批判されてきました。会社は、社員や取引先や消費者など「みんなのもの」だというのです。だとすれば、株式市場のルールを一顧だにしないオリンパスは、まさに“日本的経営”の理想の姿でしょう。
この“素晴らしき日本の伝統”が、企業の価値や社員の生活を破壊していく様を、私たちはいま目にしているのです。
参考文献:丸山真男『日本の思想』
『週刊プレイボーイ』2011年11月21日発売号
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